2007年09月29日
「要約筆記」と通訳行為−その1
私は現在、「要約筆記」は通訳行為であると考えているが、「要約筆記」という言葉は重層的で、混乱がある。通訳行為でないものも「要約筆記」と呼ばれることが実際あるのだ。少しこの点を整理してみたい。混乱の第一の理由は、従来、要約筆記に関わってきた人は、自らの行為の全てを「要約筆記」と呼んでいたというところにある。前に書いた「聞こえの保障」が求められている広い領域の中で、「通訳としての要約筆記」がカバーしている部分以外、例えば映画の字幕制作なども、要約筆記者の活動としてとらえられていた。
この時期は、「要約筆記者の活動」=「聞こえの保障の全運動」と考えられており、「聞こえの保障の全運動」の一部に「通訳行為としての要約筆記」(その場の情報保障を支える要約筆記)というものがあった。そしてよく見ると、「要約筆記者」というのは、「要約筆記奉仕員」のことだった。
何度も書くが2004年から始まった全難聴の要約筆記に関する調査研究事業は、このうちの「通訳行為としての要約筆記」に強く着目した。その場の情報保障を支援することが、聴覚障害者の権利擁護、つまり聴覚障害者がその場の情報を得て、その場に参加し、自ら判断し、行動するという聴覚障害者の当然の権利を、直接擁護するものになると考えたのだ。折からの社会福祉基礎構造改革の中、公的な支援により実現すべきものはなにか、と考えたとき、障害者の権利擁護のためにまず必要になるものを明確にしようとしたのだと言っても良い。
2004年度の事業を担った委員会の中では、「要約筆記は必ず通訳としての側面を持つ」という意見と、「通訳行為でない要約筆記もあり得る」という意見とが、対立した。前者の立場は、要約筆記を手話と対比することにより明確になる。手話は、自らがろう者とコミュニケーションするために身につける、という側面と、他人のコミュニケーションを支援するために用いる、という側面とがあることは、容易に理解される。ところが要約筆記は、自らが中途失聴・難聴者とコミュニケーションするために用いるという側面は想定しにくい。本人が書くことは、要約筆記ではなく、通常「筆談」と呼ばれる。つまり、手話と違って、要約筆記は、必ず通訳行為を含む、ととらえたのだ。
他方、音声情報から隔てられている人に、その聞こえを保障しようとすれば、その場の情報保障としての要約筆記だけでは不十分なのだ、という点から要約筆記を見たのが後者の視点だ。字幕制作、字幕付き上映、テープ起こし、筆録などの取り組みは、では誰がするのか。それらの活動を支えていたのは、伝統的に、要約筆記者だったはずだ。とすれば、要約筆記者が行なってきた、現に行なっている活動を「要約筆記」ととらえられるはずだ、要約筆記には必ずしも通訳行為を想定する必要はない、ととらえたのだ。
両方の議論を一つに止揚する方法が一つだけあったと私は考えている。それは、前者の立場を「要約筆記通訳」と命名することだった。そしてそのような通訳行為をする人を「要約筆記通訳者」と呼ぶ。従来からの聞こえの保障の広い活動領域全体は、要約筆記ととらえる、ということだ。こうすれば、二つの議論は共に生かされる。
しかし、全難聴の2005年の事業では、最終的には、「要約筆記通訳」「要約筆記通訳者」という名称は採用されなかった。途中まで、「要約筆記通訳」という言葉は使われていたのだ。しかし、最終的な報告書として出された「通訳としての要約筆記者への展望」では、そこで提案されたカリキュラム案を含めて「要約筆記通訳」という名称は使われていない。
その最大の理由は、同じ時期に法案が国会に上程され、紆余曲折を経て、2005年10月に成立した障害者自立支援法の地域支援事業の要綱の中で、「要約筆記者」という呼称を用いていたという点にあった。法律とその実施要綱で使われている言葉を使うべきではないか、おそらく、要約筆記通訳者と要約筆記奉仕員との関係は、様々に議論される。であれば、最初から自立支援法に合わせて「要約筆記者」とした方が良いのではないか。確かにそれは一理も二里もある考え方だった。
こうして、報告書とカリキュラムの記載は「要約筆記」「要約筆記者」に統一された。このため、本来なら「要約筆記通訳は通訳行為である」(当たり前)とされるべきところが、「要約筆記は通訳行為である」と読まれてしまうことになった。おそれていた混乱はやはり生じた、というべきかも知れない。
そして更にこの障害者自立支援法の地域支援事業の要綱の記載が、別の混乱を招くことになった。この点は、次回。
この時期は、「要約筆記者の活動」=「聞こえの保障の全運動」と考えられており、「聞こえの保障の全運動」の一部に「通訳行為としての要約筆記」(その場の情報保障を支える要約筆記)というものがあった。そしてよく見ると、「要約筆記者」というのは、「要約筆記奉仕員」のことだった。
何度も書くが2004年から始まった全難聴の要約筆記に関する調査研究事業は、このうちの「通訳行為としての要約筆記」に強く着目した。その場の情報保障を支援することが、聴覚障害者の権利擁護、つまり聴覚障害者がその場の情報を得て、その場に参加し、自ら判断し、行動するという聴覚障害者の当然の権利を、直接擁護するものになると考えたのだ。折からの社会福祉基礎構造改革の中、公的な支援により実現すべきものはなにか、と考えたとき、障害者の権利擁護のためにまず必要になるものを明確にしようとしたのだと言っても良い。
2004年度の事業を担った委員会の中では、「要約筆記は必ず通訳としての側面を持つ」という意見と、「通訳行為でない要約筆記もあり得る」という意見とが、対立した。前者の立場は、要約筆記を手話と対比することにより明確になる。手話は、自らがろう者とコミュニケーションするために身につける、という側面と、他人のコミュニケーションを支援するために用いる、という側面とがあることは、容易に理解される。ところが要約筆記は、自らが中途失聴・難聴者とコミュニケーションするために用いるという側面は想定しにくい。本人が書くことは、要約筆記ではなく、通常「筆談」と呼ばれる。つまり、手話と違って、要約筆記は、必ず通訳行為を含む、ととらえたのだ。
他方、音声情報から隔てられている人に、その聞こえを保障しようとすれば、その場の情報保障としての要約筆記だけでは不十分なのだ、という点から要約筆記を見たのが後者の視点だ。字幕制作、字幕付き上映、テープ起こし、筆録などの取り組みは、では誰がするのか。それらの活動を支えていたのは、伝統的に、要約筆記者だったはずだ。とすれば、要約筆記者が行なってきた、現に行なっている活動を「要約筆記」ととらえられるはずだ、要約筆記には必ずしも通訳行為を想定する必要はない、ととらえたのだ。
両方の議論を一つに止揚する方法が一つだけあったと私は考えている。それは、前者の立場を「要約筆記通訳」と命名することだった。そしてそのような通訳行為をする人を「要約筆記通訳者」と呼ぶ。従来からの聞こえの保障の広い活動領域全体は、要約筆記ととらえる、ということだ。こうすれば、二つの議論は共に生かされる。
しかし、全難聴の2005年の事業では、最終的には、「要約筆記通訳」「要約筆記通訳者」という名称は採用されなかった。途中まで、「要約筆記通訳」という言葉は使われていたのだ。しかし、最終的な報告書として出された「通訳としての要約筆記者への展望」では、そこで提案されたカリキュラム案を含めて「要約筆記通訳」という名称は使われていない。
その最大の理由は、同じ時期に法案が国会に上程され、紆余曲折を経て、2005年10月に成立した障害者自立支援法の地域支援事業の要綱の中で、「要約筆記者」という呼称を用いていたという点にあった。法律とその実施要綱で使われている言葉を使うべきではないか、おそらく、要約筆記通訳者と要約筆記奉仕員との関係は、様々に議論される。であれば、最初から自立支援法に合わせて「要約筆記者」とした方が良いのではないか。確かにそれは一理も二里もある考え方だった。
こうして、報告書とカリキュラムの記載は「要約筆記」「要約筆記者」に統一された。このため、本来なら「要約筆記通訳は通訳行為である」(当たり前)とされるべきところが、「要約筆記は通訳行為である」と読まれてしまうことになった。おそれていた混乱はやはり生じた、というべきかも知れない。
そして更にこの障害者自立支援法の地域支援事業の要綱の記載が、別の混乱を招くことになった。この点は、次回。
2007年09月28日
浅田次郎「憑神」(新潮文庫)
浅田次郎の時代小説を初めて読んだ。残念ながらこれはちょっといただけない。浅田次郎という人はなにを書かせてもおもしろく書く。それは知っている。しかし時代小説はいけない。どうしてだろうかと考えた。思ったのは、こういうことである。
時代小説は窮屈な小説である。現代とは様々なものが切れている。もちろんつながっているものもあるが、切れているものは少なくない。まず言葉の一部が切れている。もはや誰も江戸時代の助動詞は使っていない。政治の仕組みも違う、人々の価値観も違う。その制約の中で書くのが時代小説というものだ。藤沢周平の小説を読むとそのことがわかる。時代小説は、いわば設計図を渡されて筺(はこ)をつくる作業に似ている。筺の材料も寸法も、時には外見の装飾さえ決まっている。勝手につくる訳にはいかないのだ。筺の使い道や細かな細工の意味は、現代からみればよくわからない。よくわからないが、勝手に変えたのでは時代小説ではなくなってしまう。そういう制約を背負っているのが時代小説なんだと私は思ってきた。
設計図を渡されて寸法通りに作っているのに、作り手の個性がそこに宿ってくる。それどころか正確に作られた時代小説という筺には、今に生きている私たちが理解でき、隣人のように感じる人間が住まうのだ。筺が強固に作られていればいるほど、筺に宿った小説も力強い。それが時代小説のおもしろさだと思う。譜面通りに弾くという作業の果てに、演奏者だけのバッハが聞こえてくると、生涯パイプオルガンを学び続けた森有正は語っていたではないか。それと同じだ。
「憑神」は決してつまらない小説ではない。物語は奇想天外、次々と趣向をこらして物語は進む。正義感も人情も、当意即妙のやりとりもそこにはある。が、ただ一つ時代小説を時代小説にしているものがない。おそらく著者・浅田次郎は、才能がありすぎるのだ。時代小説として評価されることも著者の望むところではないかも知れない。この小説を時代小説という枠組みで評価しても始まらないともいえる。小説のテーマはおそらく、「死ぬ運命にある」というただ一点で神よりも輝くことができる存在としての人間を描く、というところにあるのだろう。幕末という時代背景を借りてそのテーマを描こうとした著者の試みは成功しているのだろうか。残念ながら私の感想は否定的だ。テーマとして不足はない、が、このテーマを描くのであれば、筺はもっと強固な筺、細部までしっかりと設計された筺でなければならない。著者の自在な筆の運びが、筺を膨らませたりへこませたりする。それでは、このテーマは本当の意味で生きてこないのだろう。
あの藤沢周平でさえ、完成稿とならないまま中断され、遺稿として刊行された「漆の実の実る国」では、筺はがたがたで、小説はついに立ち上がらないままだ。推敲に推敲を重ねるといわれた藤沢周平は、時代小説が強い筺を必要とすることを知っていたのだ。藤沢周平が亡くなってはや十年。「時代小説」と呼べる作品の新たな書き手はもう現われないのだろうか。
時代小説は窮屈な小説である。現代とは様々なものが切れている。もちろんつながっているものもあるが、切れているものは少なくない。まず言葉の一部が切れている。もはや誰も江戸時代の助動詞は使っていない。政治の仕組みも違う、人々の価値観も違う。その制約の中で書くのが時代小説というものだ。藤沢周平の小説を読むとそのことがわかる。時代小説は、いわば設計図を渡されて筺(はこ)をつくる作業に似ている。筺の材料も寸法も、時には外見の装飾さえ決まっている。勝手につくる訳にはいかないのだ。筺の使い道や細かな細工の意味は、現代からみればよくわからない。よくわからないが、勝手に変えたのでは時代小説ではなくなってしまう。そういう制約を背負っているのが時代小説なんだと私は思ってきた。
設計図を渡されて寸法通りに作っているのに、作り手の個性がそこに宿ってくる。それどころか正確に作られた時代小説という筺には、今に生きている私たちが理解でき、隣人のように感じる人間が住まうのだ。筺が強固に作られていればいるほど、筺に宿った小説も力強い。それが時代小説のおもしろさだと思う。譜面通りに弾くという作業の果てに、演奏者だけのバッハが聞こえてくると、生涯パイプオルガンを学び続けた森有正は語っていたではないか。それと同じだ。
「憑神」は決してつまらない小説ではない。物語は奇想天外、次々と趣向をこらして物語は進む。正義感も人情も、当意即妙のやりとりもそこにはある。が、ただ一つ時代小説を時代小説にしているものがない。おそらく著者・浅田次郎は、才能がありすぎるのだ。時代小説として評価されることも著者の望むところではないかも知れない。この小説を時代小説という枠組みで評価しても始まらないともいえる。小説のテーマはおそらく、「死ぬ運命にある」というただ一点で神よりも輝くことができる存在としての人間を描く、というところにあるのだろう。幕末という時代背景を借りてそのテーマを描こうとした著者の試みは成功しているのだろうか。残念ながら私の感想は否定的だ。テーマとして不足はない、が、このテーマを描くのであれば、筺はもっと強固な筺、細部までしっかりと設計された筺でなければならない。著者の自在な筆の運びが、筺を膨らませたりへこませたりする。それでは、このテーマは本当の意味で生きてこないのだろう。
あの藤沢周平でさえ、完成稿とならないまま中断され、遺稿として刊行された「漆の実の実る国」では、筺はがたがたで、小説はついに立ち上がらないままだ。推敲に推敲を重ねるといわれた藤沢周平は、時代小説が強い筺を必要とすることを知っていたのだ。藤沢周平が亡くなってはや十年。「時代小説」と呼べる作品の新たな書き手はもう現われないのだろうか。
2007年09月25日
「通訳」行為と要約筆記者
聞こえない人のためのその場の情報保障ということを明確にするために、「通訳としての要約筆記」という言い方をするのだが、この「通訳」という言葉について、様々な誤解がある。その誤解の一つに、通訳が要約筆記者の理解を通じて行なわれる、ということに対して、それでは要約筆記を利用する人は、要約筆記者の理解を聞かされることになってしまう、というものがある。
人が、他人の話を媒介する場合、理解なしには、伝達行為そのものが成り立たないことはおそらく了解されている。しかし、その要約筆記者の理解というものが、なにかその要約筆記者個人の理解、というものだと誤解されているらしい。もちろんある意味でそれは要約筆記者個人の理解なのだといえる。そう言うと、要約筆記による通訳では、例えば十人の要約筆記者がいて、要約筆記をすると、十通りの理解があり、十通りの要約筆記者の意見に彩られた筆記が画面に現われる、というふうに受け取るのだろうか。
私は全くそうは思っていない。訓練していない人がメモを取る、という場合は、確かにそれに近いことが起きるだろう。要約筆記者が何十時間、あるいは百時間を越える講座を受講し、訓練を受けるということは、十人の要約筆記者が同じように書く、言葉のいくつかは異なるとしても、意味全体では同じ内容を通訳できるようになるためなのだ。それが要約筆記が誰にでもできるわけではない、という意味で、要約筆記には高い専門性がある、といわれる理由だ。
「速く書く 講義・講演筆記の技法」(斉藤喜門著、蒼丘書林、1987年)という本によれば、中学生に一年間添削指導をしたら、書き取る内容がほとんど同じになったという。著者は、授業のノート録りを中学生に指導する実験をしたという。最初は、全くバラバラだった40人の中学生のノートの内容が、一年間、添削指導をし続けると、一年後には見事に一致したという。これが訓練ということなのだ。
ある人が何かを伝えようとして話をする、文章を書く。その順序は、「言いたい何か」がまず先にあり、その後で言葉が選ばれる。あるいは話しながら、書きながら、言いたい何かがはっきりしてくる。その言いたいこと、伝えたいことを、話し手なり、書き手が選択した言葉を通して、受け取った人が理解する。訓練された要約筆記者による理解は、受け取った要約筆記者の意見ではなく、話し手が意図した「伝えたいこと」の理解そのものになる、そういうもの目指しているのだ。実際、いわゆる上手い要約筆記者を集めてデモテープを使って筆記してもらうと、その要約筆記は驚くほど似ている。個々の要約筆記者は確かにそれぞれの意見を持っているだろう。しかし要約筆記の作業とは、そうした要約筆記者の持っている意見とは何の関係もないもの、個々の要約筆記者の個性や違いを越えて、客観的に話し手の意図を再現するものを目指しているのだ。
では、どうすればそうした理解、理解に基づく筆記が可能になるのか。2005年に全難聴により実施された「要約筆記通訳者養成等に関する調査研究事業」で検討され提案された「要約筆記者」の到達目標とカリキュラムをみてほしい。それまでの「要約筆記奉仕員」の到達目標が「聴覚障害(および聴覚障害者)の理解」と「要約筆記の技術および知識」の二つに括られるのに対して、「要約筆記者」の到達目標は5つある。その到達目標に至るためのカリキュラムの内容もかなりのボリュームになっている。それは、要約筆記者に幅広い知識を身につけてもらい、より客観性の高い要約筆記を実現するためだと言っていいだろう。全難聴の上記事業で提案された「要約筆記者の到達目標」を掲げておく(全難聴のホームページになぜか到達目標それ自体は見あたらない。掲載して欲しいな)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
要約筆記通訳者の5つの到達目標
・社会福祉の理念を理解していること
・「通訳」という行為に対する自覚的な理解をしていること
・要約筆記技術をもって通訳作業を実践できること
・対人支援に関わる者としての自己育成ができること
・聴覚障害者の権利擁護の観点から通訳できること
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
社会福祉の理念を理解し、自らの行為(通訳としての要約筆記による支援行為)に対して自覚な理解をする、あるいは対人支援の観点から自己育成ができる、そういう要約筆記者とは、単に聞こえない人が困っているからなんとしたい、せめて少しでも情報を手渡したいとペンを握るという人のことではない。人が何かを伝えたいと考えて言葉を選択する、言葉を組み立てて伝えようとする、その行為がどのようになされるか、というところまで遡って学んでいる人、使われている日本語がどのような言語であり、どのような特徴を持っているのか、だから表現はこのようになされ、それを伝えるためにはどのような言葉の選択と組立が必要になるかを知っている人。障害者への支援とは、障害者の権利擁護のためであり、その権利擁護がこの国ではどのような制度的枠組みで行なわれているかを理解している人、そして障害者一人一人を支援することの意味、支援に関わる要約筆記者のあり方について自省と向上の気持ちを持ち続けられる人。そういう人を目指して、「要約筆記者」を定義しようとしたのが、要約筆記者の到達目標であり、その養成カリキュラムだと思っている。
それは高い理想かも知れない。しかし高い理想を掲げない運動に実りは小さい。私たち、「要約筆記者」を目指す者は、要約筆記が、自分たちの理解に基づいて行なわれることを知っている。だからこそ、その自分の理解が、より客観的で、共通の理解に近づくように研鑽を惜しまない。その力が一定のレベルに達しないのであれば、いくら中途失聴・難聴者に対する暖かい心があったとしても、通訳行為に関わってはいけない。そのためには、公的な支援に携わる要約筆記者であれば、認定試験はさけて通れないだろう。「要約筆記奉仕員」という存在が不要な訳ではない。中途失聴・難聴者の社会参加を促進する支援という点から、たくさんの要約筆記奉仕員が育つことは必要だ。しかし、「奉仕員」という枠組みは、支援しようとする気持ちを大切にし、身につけた技術でそれなりの支援をする人なのだ。認定試験は、奉仕員にはなじまない。
いずれ、話し手のことばをそのまま伝える技術が作られるかも知れない。その前に、音声を、より自然に聴神経の信号に変換して、聞こえるようにする医療が実現するかも知れない。それはもちろん望ましいことだ。早くそうなってほしい。しかし今現在、全文を伝える技術も完全な人工内耳もないのだから、誰かが、他人の言葉を、いや、言いたいこと(意図)を伝達しなければならない。最も小規模な機材でそれを可能にする手書き要約筆記の果たすべき仕事は、まだまだ大きいと私は思う。それが、2年の訓練期間を想定した「要約筆記者」の養成が早く始められなければならないと考える理由だ。
人が、他人の話を媒介する場合、理解なしには、伝達行為そのものが成り立たないことはおそらく了解されている。しかし、その要約筆記者の理解というものが、なにかその要約筆記者個人の理解、というものだと誤解されているらしい。もちろんある意味でそれは要約筆記者個人の理解なのだといえる。そう言うと、要約筆記による通訳では、例えば十人の要約筆記者がいて、要約筆記をすると、十通りの理解があり、十通りの要約筆記者の意見に彩られた筆記が画面に現われる、というふうに受け取るのだろうか。
私は全くそうは思っていない。訓練していない人がメモを取る、という場合は、確かにそれに近いことが起きるだろう。要約筆記者が何十時間、あるいは百時間を越える講座を受講し、訓練を受けるということは、十人の要約筆記者が同じように書く、言葉のいくつかは異なるとしても、意味全体では同じ内容を通訳できるようになるためなのだ。それが要約筆記が誰にでもできるわけではない、という意味で、要約筆記には高い専門性がある、といわれる理由だ。
「速く書く 講義・講演筆記の技法」(斉藤喜門著、蒼丘書林、1987年)という本によれば、中学生に一年間添削指導をしたら、書き取る内容がほとんど同じになったという。著者は、授業のノート録りを中学生に指導する実験をしたという。最初は、全くバラバラだった40人の中学生のノートの内容が、一年間、添削指導をし続けると、一年後には見事に一致したという。これが訓練ということなのだ。
ある人が何かを伝えようとして話をする、文章を書く。その順序は、「言いたい何か」がまず先にあり、その後で言葉が選ばれる。あるいは話しながら、書きながら、言いたい何かがはっきりしてくる。その言いたいこと、伝えたいことを、話し手なり、書き手が選択した言葉を通して、受け取った人が理解する。訓練された要約筆記者による理解は、受け取った要約筆記者の意見ではなく、話し手が意図した「伝えたいこと」の理解そのものになる、そういうもの目指しているのだ。実際、いわゆる上手い要約筆記者を集めてデモテープを使って筆記してもらうと、その要約筆記は驚くほど似ている。個々の要約筆記者は確かにそれぞれの意見を持っているだろう。しかし要約筆記の作業とは、そうした要約筆記者の持っている意見とは何の関係もないもの、個々の要約筆記者の個性や違いを越えて、客観的に話し手の意図を再現するものを目指しているのだ。
では、どうすればそうした理解、理解に基づく筆記が可能になるのか。2005年に全難聴により実施された「要約筆記通訳者養成等に関する調査研究事業」で検討され提案された「要約筆記者」の到達目標とカリキュラムをみてほしい。それまでの「要約筆記奉仕員」の到達目標が「聴覚障害(および聴覚障害者)の理解」と「要約筆記の技術および知識」の二つに括られるのに対して、「要約筆記者」の到達目標は5つある。その到達目標に至るためのカリキュラムの内容もかなりのボリュームになっている。それは、要約筆記者に幅広い知識を身につけてもらい、より客観性の高い要約筆記を実現するためだと言っていいだろう。全難聴の上記事業で提案された「要約筆記者の到達目標」を掲げておく(全難聴のホームページになぜか到達目標それ自体は見あたらない。掲載して欲しいな)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
要約筆記通訳者の5つの到達目標
・社会福祉の理念を理解していること
・「通訳」という行為に対する自覚的な理解をしていること
・要約筆記技術をもって通訳作業を実践できること
・対人支援に関わる者としての自己育成ができること
・聴覚障害者の権利擁護の観点から通訳できること
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
社会福祉の理念を理解し、自らの行為(通訳としての要約筆記による支援行為)に対して自覚な理解をする、あるいは対人支援の観点から自己育成ができる、そういう要約筆記者とは、単に聞こえない人が困っているからなんとしたい、せめて少しでも情報を手渡したいとペンを握るという人のことではない。人が何かを伝えたいと考えて言葉を選択する、言葉を組み立てて伝えようとする、その行為がどのようになされるか、というところまで遡って学んでいる人、使われている日本語がどのような言語であり、どのような特徴を持っているのか、だから表現はこのようになされ、それを伝えるためにはどのような言葉の選択と組立が必要になるかを知っている人。障害者への支援とは、障害者の権利擁護のためであり、その権利擁護がこの国ではどのような制度的枠組みで行なわれているかを理解している人、そして障害者一人一人を支援することの意味、支援に関わる要約筆記者のあり方について自省と向上の気持ちを持ち続けられる人。そういう人を目指して、「要約筆記者」を定義しようとしたのが、要約筆記者の到達目標であり、その養成カリキュラムだと思っている。
それは高い理想かも知れない。しかし高い理想を掲げない運動に実りは小さい。私たち、「要約筆記者」を目指す者は、要約筆記が、自分たちの理解に基づいて行なわれることを知っている。だからこそ、その自分の理解が、より客観的で、共通の理解に近づくように研鑽を惜しまない。その力が一定のレベルに達しないのであれば、いくら中途失聴・難聴者に対する暖かい心があったとしても、通訳行為に関わってはいけない。そのためには、公的な支援に携わる要約筆記者であれば、認定試験はさけて通れないだろう。「要約筆記奉仕員」という存在が不要な訳ではない。中途失聴・難聴者の社会参加を促進する支援という点から、たくさんの要約筆記奉仕員が育つことは必要だ。しかし、「奉仕員」という枠組みは、支援しようとする気持ちを大切にし、身につけた技術でそれなりの支援をする人なのだ。認定試験は、奉仕員にはなじまない。
いずれ、話し手のことばをそのまま伝える技術が作られるかも知れない。その前に、音声を、より自然に聴神経の信号に変換して、聞こえるようにする医療が実現するかも知れない。それはもちろん望ましいことだ。早くそうなってほしい。しかし今現在、全文を伝える技術も完全な人工内耳もないのだから、誰かが、他人の言葉を、いや、言いたいこと(意図)を伝達しなければならない。最も小規模な機材でそれを可能にする手書き要約筆記の果たすべき仕事は、まだまだ大きいと私は思う。それが、2年の訓練期間を想定した「要約筆記者」の養成が早く始められなければならないと考える理由だ。
2007年09月24日
オラトリオ「森の歌」
田舎で、ショスタコービッチのオラトリオ「森の歌」を何年かぶりに聞いた。この曲をここで聞くまでには経緯がある。私は、マッキントッシュ(Macintosh)というコンピュータをほぼその初代から使ってきた。「ほぼ」というのはさすがにMac128Kと呼ばれた初代は使っていないからだ。この初代のマッキントッシュは日本では正式には発売されなかったのではないだろうか。何しろ日本語が使えなかったのだから。初代のMac128Kの「128K」は主記憶が128Kバイトであることを意味している。発売された1984年当時、この容量は決して少なくはなかった。それでも日本語を扱うには、このメモリ容量は少なすぎたのだ。メモリ容量を1Mバイトに増やした(最大4Mバイトまで増設可能)Macintosh Plusが発売されて、ようやく日本語が扱えようになり、私はこのパーソナルコンピュータを購入した。以来、自宅のパーソナルコンピュータがMac以外であったことはない。
そして1996年、このMacintoshというコンピュータを作ってきたアップルコンピュータは自らの会社創立20周年を記念して「20周年記念モデル」というコンピュータを発売した。通称「Spartacus」。その美しいデザインと先進の使い勝手は、当時のマックマニア垂涎のマシンだった。発売から何年かして(値段が1/4になったので)、私はこのマシンを手に入れた。すでにマシンのスペックは少し時代遅れになりかかっていたが、そのデザイン、使いやすさ、驚きの機能、そして特筆すべきその音質は、十分に満足できるものだった。
私は長くこのマシンを使ってきたが、3年前、突然ネットワークに接続する機能が壊れた。書き出したらそれこそ切りがないほどの修理と再生の試みをした後で、もはや直らない、代替のパーツの供給も不可能、という結論を出したときの口惜しさは忘れられない。しかし、ネットワークに、インターネットにつなげないマシンでは、日常の仕事を支えきれないことは、どう考えても明らかだった。
こうして私はこの美しいマシンを自分の机上から下ろしたのだが、捨てることもできず、この数年間、私の狭い部屋の一隅を占めていた。ところが、最近になって、田舎にこのマシンを持っていくことを思いついた。そこには光ブロードバンドもなければケーブルテレビもない。要するにインターネットにはつなげない場所なのだ。ならばネットワーク機能が失われていることは関係がない。かくて、20周年記念モデル「Spartacus」は、再び、あの重厚な起動の音を立てて動き始めることになった。
音楽CDを再生する。音響設計をあのBose社が担当しただけあって、音質は折り紙付きだ。なにしろこのマシンには、最初からウーハー(重低音再生専用スピーカー)が付属している(写真右端)。正確に言えば、ウーハーに繋がないとコンピュータとしてさえ動かないように設計されているのだ。そして音楽を楽しむために、コンピュータには騒音源になる冷却用のファンは設けられていない。ショスタコービッチのオラトリオ「森の歌」のCDをセットする。太々とバリトンの独唱が聞こえてくる。その音が、窓外に拡がっていく。
中学生になったとき、父がお祝いに買ってくれたステレオでたくさんのLPを聴いた。一番関心を持ったのが、このショスタコービッチというロシアの作曲家の音楽だった。解説を読むと、社会主義国家建設の槌音とかなにやら勇ましげな言葉が並んでいたが、私にはどうしてもそういう音楽には聞こえなかった。中学生の私にどの程度理解できたのか、今となってはよく分からないが、何か必死にこらえている悲しみのようなものをこの作曲家の楽音に感じた。ショスタコービッチがなにを考えていたのか、そのことを私は、後年「ショスタコービッチの証言」(中央公論社・1980年)という本を読んで知った。この本には、真贋論争があり、現在は偽書としての扱いが有力だが、この本でショスタコービッチが語ったという自分の音楽に対する発言は、私には説得力があった。
オラトリオ「森の歌」では注意深く隠されていた悲しみは、交響曲第13番「バビ・ヤール」、第14番「死者の歌」では、明確なメッセージとなって届けられる。私たちが今生きているこの時代、障害者の権利擁護という言葉を当たり前のように語ることができるこの時代は、独裁の時代、偉大なる指導者の元でピオネールが一斉に木を植える時代、その陰で人としての権利を奪われたままの大量死が実行された時代を越えてきた。本当の意味で越えてきたのかどうか、単に忘れてきただけではないのか。オラトリオ「森の歌」を聴きながら、そんなことを考えていた。
そして1996年、このMacintoshというコンピュータを作ってきたアップルコンピュータは自らの会社創立20周年を記念して「20周年記念モデル」というコンピュータを発売した。通称「Spartacus」。その美しいデザインと先進の使い勝手は、当時のマックマニア垂涎のマシンだった。発売から何年かして(値段が1/4になったので)、私はこのマシンを手に入れた。すでにマシンのスペックは少し時代遅れになりかかっていたが、そのデザイン、使いやすさ、驚きの機能、そして特筆すべきその音質は、十分に満足できるものだった。
私は長くこのマシンを使ってきたが、3年前、突然ネットワークに接続する機能が壊れた。書き出したらそれこそ切りがないほどの修理と再生の試みをした後で、もはや直らない、代替のパーツの供給も不可能、という結論を出したときの口惜しさは忘れられない。しかし、ネットワークに、インターネットにつなげないマシンでは、日常の仕事を支えきれないことは、どう考えても明らかだった。
こうして私はこの美しいマシンを自分の机上から下ろしたのだが、捨てることもできず、この数年間、私の狭い部屋の一隅を占めていた。ところが、最近になって、田舎にこのマシンを持っていくことを思いついた。そこには光ブロードバンドもなければケーブルテレビもない。要するにインターネットにはつなげない場所なのだ。ならばネットワーク機能が失われていることは関係がない。かくて、20周年記念モデル「Spartacus」は、再び、あの重厚な起動の音を立てて動き始めることになった。
音楽CDを再生する。音響設計をあのBose社が担当しただけあって、音質は折り紙付きだ。なにしろこのマシンには、最初からウーハー(重低音再生専用スピーカー)が付属している(写真右端)。正確に言えば、ウーハーに繋がないとコンピュータとしてさえ動かないように設計されているのだ。そして音楽を楽しむために、コンピュータには騒音源になる冷却用のファンは設けられていない。ショスタコービッチのオラトリオ「森の歌」のCDをセットする。太々とバリトンの独唱が聞こえてくる。その音が、窓外に拡がっていく。
中学生になったとき、父がお祝いに買ってくれたステレオでたくさんのLPを聴いた。一番関心を持ったのが、このショスタコービッチというロシアの作曲家の音楽だった。解説を読むと、社会主義国家建設の槌音とかなにやら勇ましげな言葉が並んでいたが、私にはどうしてもそういう音楽には聞こえなかった。中学生の私にどの程度理解できたのか、今となってはよく分からないが、何か必死にこらえている悲しみのようなものをこの作曲家の楽音に感じた。ショスタコービッチがなにを考えていたのか、そのことを私は、後年「ショスタコービッチの証言」(中央公論社・1980年)という本を読んで知った。この本には、真贋論争があり、現在は偽書としての扱いが有力だが、この本でショスタコービッチが語ったという自分の音楽に対する発言は、私には説得力があった。
オラトリオ「森の歌」では注意深く隠されていた悲しみは、交響曲第13番「バビ・ヤール」、第14番「死者の歌」では、明確なメッセージとなって届けられる。私たちが今生きているこの時代、障害者の権利擁護という言葉を当たり前のように語ることができるこの時代は、独裁の時代、偉大なる指導者の元でピオネールが一斉に木を植える時代、その陰で人としての権利を奪われたままの大量死が実行された時代を越えてきた。本当の意味で越えてきたのかどうか、単に忘れてきただけではないのか。オラトリオ「森の歌」を聴きながら、そんなことを考えていた。
2007年09月20日
公的な支援について
この間、「まごのて」が取り組んでいるプラネタリウムの字幕付き上演について、「この活動が継続されていけばいずれ何らかの形で公的な支援が得られるはずだ。あるいは公的な取り組みになっていくはずだ。」と書いた。それで思い出したのだが、例えばこういう取り組みがある。
東京都中途失聴・難聴者協会は、2008年3月9日に、コズミックスポーツセンター内プラネタリウム(新宿区大久保3-1-2) で、字幕付きプラネタリウム上映会を開催するとして、助成金を申請し、東京都新宿区の「NPO活動資金助成の事業」の対象となっている。単発の活動とはいえ、すでに公的な助成の対象となっているケースもあるわけだ。公的な助成とはちょっと違うが、明石市立天文科学館のプラネタリウムでも
10月14日(日) 午前10:20〜
に字幕付きの上映を予定しておられるが、これは「明石しおさいライオンズクラブ」が支援していると聞く。様々な形で、公的な支援が始まっているということもできるだろう。
ところで、これらの支援はもっぱら資金援助の形をとっているが、プラネタリウムの上映主体が、名古屋市科学館のように、公立であれば、資金援助などではなく、直接科学館なりが字幕制作や投影を担当するという形でも、公的な支援は可能になる。いや、むしろ字幕付き上映は、科学館が中心になって行なうべきものだと思う。理由の一つは、それが公立の施設が果たすべき役割だということ、もう一つは内容に責任を持つためには上映主体が字幕を作るべきだという理由だ。実際、名古屋市科学館の場合、字幕付け以外に、館内にアシストホンを導入するなど、公立の施設として、様々な取り組みをしておられる(下は、アシストホンによる補聴援助システムの導入を告知する看板)。
ただ、全てを科学館の中で完結してしまう、ということが良いのか、と思うと、「待てよ」と考えてしまう。「まごのて」が長くプラネタリウムの字幕付き上映に関わってきたからかも知れないが、何か市民活動としての側面が残っていて欲しいという気持ちがある。海外の美術館などは、大規模な施設ボランティアを組織している例が少なくない。公的な施設が地域住民の文化的な生活を満たし、地域が公的な施設を支える、という関係。同じように、科学館が、様々なタイプのボランティアと手を組み、広範な活動を展開する、その中の一つにプラネタリウムの字幕付き上映がある、というのが理想ではないだろうか。
名古屋市科学館の場合、ALC(アルク)という市民ボランティア団体がある。とはいえ、この団体は、「天文指導者クラブ」だから、天文関係の専門性の高いボランティア団体だろう。そうした団体ももちろん必要だが、もっと普通の市民が関われる施設ボランティアというものが生かせないだろうか。字幕付きの上映の日程や内容は、科学館が決め、上映の責任は、科学館が持つ、そして市民ボランティアと手を組んで字幕を作っていく、字幕付きの上映を行なう、あるいは科学館の科学実験コーナーに、聴覚障害者のための情報保障を付ける、視覚障害者のためのボイスガイドを付ける、そういう取り組みができないものだろうか。
現在の名古屋でのプラネタリウムの字幕付き上映に公的な支援が得られる時がくるとすれば、それは単なる資金援助ではなく、名古屋市科学館を中心とする取り組み、しかし市民ボランティアと提携した取り組みになって欲しい、そう願っている。
東京都中途失聴・難聴者協会は、2008年3月9日に、コズミックスポーツセンター内プラネタリウム(新宿区大久保3-1-2) で、字幕付きプラネタリウム上映会を開催するとして、助成金を申請し、東京都新宿区の「NPO活動資金助成の事業」の対象となっている。単発の活動とはいえ、すでに公的な助成の対象となっているケースもあるわけだ。公的な助成とはちょっと違うが、明石市立天文科学館のプラネタリウムでも
10月14日(日) 午前10:20〜
に字幕付きの上映を予定しておられるが、これは「明石しおさいライオンズクラブ」が支援していると聞く。様々な形で、公的な支援が始まっているということもできるだろう。
ところで、これらの支援はもっぱら資金援助の形をとっているが、プラネタリウムの上映主体が、名古屋市科学館のように、公立であれば、資金援助などではなく、直接科学館なりが字幕制作や投影を担当するという形でも、公的な支援は可能になる。いや、むしろ字幕付き上映は、科学館が中心になって行なうべきものだと思う。理由の一つは、それが公立の施設が果たすべき役割だということ、もう一つは内容に責任を持つためには上映主体が字幕を作るべきだという理由だ。実際、名古屋市科学館の場合、字幕付け以外に、館内にアシストホンを導入するなど、公立の施設として、様々な取り組みをしておられる(下は、アシストホンによる補聴援助システムの導入を告知する看板)。
ただ、全てを科学館の中で完結してしまう、ということが良いのか、と思うと、「待てよ」と考えてしまう。「まごのて」が長くプラネタリウムの字幕付き上映に関わってきたからかも知れないが、何か市民活動としての側面が残っていて欲しいという気持ちがある。海外の美術館などは、大規模な施設ボランティアを組織している例が少なくない。公的な施設が地域住民の文化的な生活を満たし、地域が公的な施設を支える、という関係。同じように、科学館が、様々なタイプのボランティアと手を組み、広範な活動を展開する、その中の一つにプラネタリウムの字幕付き上映がある、というのが理想ではないだろうか。
名古屋市科学館の場合、ALC(アルク)という市民ボランティア団体がある。とはいえ、この団体は、「天文指導者クラブ」だから、天文関係の専門性の高いボランティア団体だろう。そうした団体ももちろん必要だが、もっと普通の市民が関われる施設ボランティアというものが生かせないだろうか。字幕付きの上映の日程や内容は、科学館が決め、上映の責任は、科学館が持つ、そして市民ボランティアと手を組んで字幕を作っていく、字幕付きの上映を行なう、あるいは科学館の科学実験コーナーに、聴覚障害者のための情報保障を付ける、視覚障害者のためのボイスガイドを付ける、そういう取り組みができないものだろうか。
現在の名古屋でのプラネタリウムの字幕付き上映に公的な支援が得られる時がくるとすれば、それは単なる資金援助ではなく、名古屋市科学館を中心とする取り組み、しかし市民ボランティアと提携した取り組みになって欲しい、そう願っている。
2007年09月17日
聞こえの保障と要約筆記
私が要約筆記に関わりを持ち始めた約30年前。中途失聴者・難聴者が求めていたものは、「聞こえの保障」だった。中途失聴、難聴であることによって、社会で、いや社会だけではなく、家庭で、教育の場で、職場で、つまりあらゆる場所で、中途失聴者、難聴者は、音声情報から隔てられていた。中途失聴者・難聴者に音声情報を保障しようとする動きはきわめて弱かった。手話は、少しずつ認知され始めていたが、聴覚障害者ならば手話が使えるはず、という誤解もまた拡がり始めていた。
聞こえないが手話を使わない、あるいは使えない聴覚障害者の存在にいち早く気づき支援を始めたのは、手話通訳者の一部の方々だったが、手話に代えて、話しことばを文字にして伝えようとする活動は、やがて「要約筆記者」に引き継がれて行った。中途失聴者・難聴者が求めたのは「聞こえの保障」であって、単に会議の通訳ではなかった。要約筆記者もその要求の切実なことを知り、聞こえの保障を求める運動に積極的に関わってきた。聞こえないことで隔てられた音声情報を取り戻すために音声を文字化して伝える試みは、OHPの上に透明なシートをおいて油性ペンで書き、その場の情報を伝えることだけではなく、日本映画に字幕を付けること、講演などの録音をテープ起こしして提供するなど、様々な取り組みとして行なわれた。そして現在も続いている。
様々な分類が可能だが、音声情報をたとえば次の二つの軸を使って整理してみることができる。
横軸:前もって準備できるものか、その場で対応するしかないものか
縦軸:話の内容が重要か、どんな風には話されたかといった表現が重要か
内容が重要
☆ ↑ ★ 会議
事 | 講演
前 ◆映画 プラネタリウム
に←————————┼——————→その場で発言
準 芝居 |
備 |
落語 ↓
表現が重要
(等幅フォントで表示してください)
例えば映画の音声は、事前に字幕として準備しておき、映画の上映に合わせて、映画スクリーンの横に投影する事ができる。したがって、こうした事前に準備できるものは横軸の一番左端に位置する。会議などで出席者が話すことはその場での発言だから、事前に準備することは難しい。これは横軸だと一番右側にくる。名古屋市科学館での上演は、学芸員の話す内容がある程度分かっているが、毎回同じではない、という意味では、横軸の真ん中くらいか。落語なども、話す内容はだいたい同じだが、事前に字幕をすべて用意できる訳ではないという点で似ている。
他方、議論しているときの誰かの意見は、その内容が一番重要だ。提案に賛成なのか反対なのか、その理由は何か、ということが重要であって、名古屋弁で賛成したか関西弁で反対したかは問題には(普通は)ならない。これは縦軸の一番上に来る。他方、落語であれば、話す内容はほぼ決まっているが、どう話すかが重要になる。同じ話を二つ目が演るのと、名人が演ずるのではまるで違う。芸術は、つまるところ表現に宿るのだ。縦軸上では、一番下に位置づけられるだろう。
こうやって様々な音声情報を、この二つの軸を使って分類してみる。そうすると、例えば駅など交通機関の案内放送でも、次の駅名の案内なら事前に準備しておけるし、内容(駅名)が重要だから、左の上(☆印のところ)。一方、事故などで止まったときは、事前に準備しておけず、内容重視だから、右上(★印のところ)、となる。
この広い音声情報の世界のどこが現時点である程度保障され、どこが保障されていないだろうか。その検討をする前に、まず誰がこの音声情報の世界を聞こえない人に伝えたいと考えたかを思ってみてほしい。まず家族が何とかしようと考えたことは間違いない。それは、聴覚障害児の体験談を伺うとよく分かる。学校の授業を子どもにすべて録音させ、夜っぴて家族で(大部分は母親が)テープ起こししてきたという話を聞くことがある。しかしあらゆる場所に家族だけで対応できないことははっきりしている。次第に社会的な支援の必要性が理解され、ボランティアによる対応が始まる。とはいえ、初期の頃のボランティアには、「聞こえない家族がいて」とか「聞こえない友人に頼まれて」とか、何らかの係累を持っているケースが多かったように思う。それはある程度当然だと思う。なぜなら、中途失聴者・難聴者がどういう支援を必要としているか、という整理はされておらず、その要求がある程度分かっているのは関係者だけだったのだから。
ボランティアによる対応が始まって、どのような支援が必要であり、可能なのかが分かってきて初めて行政による公的な支援が始まる。この関係は、後になるとなかなかわかりにくくなる。手話通訳が必要だとか、要約筆記が必要だ、公的な派遣は当然だ、と現時点では考えるけれど、支援の始まりにおいては、そのことは分かっていない。第一、手話通訳や要約筆記という方法で音声情報を伝えることが可能かどうか、誰も知らなかったのだから。
名古屋の場合、要約筆記者の派遣は、厚生省(当時)のいわゆるメニュー事業に要約筆記者派遣事業が入る一年前(1984年)から始まっている(メニュー事業に入ったのは1985年)。それは、1978年に名古屋に生まれた「まごのて」というサークルが毎年多数の要約筆記派遣を引き受け、そのデータを年度ごとに名古屋市に提出してきたということ、そしてその派遣依頼の過半を占めていた名難聴(当時は名聴連のB部)が、苦しい財政をやりくりしながら、その派遣の謝礼を負担し、行政に対して、自分たちには要約筆記が必要だ、そしてそのためにはこれだけの費用がかかるのだ、と要求し続けてきた、ということ、この二つの事実が大きい。上述した情報保障の広い領域の中で、この部分(★印のあたり)、つまり難聴者の会議などの情報保障を、要約筆記という方法でカバーできることを実践的に示し、そのデータをもって行政に要望していくことで初めて公的な支援が実現した。それなしにはどのような支援も公的な支援として取り出されることはないのだ。
名古屋市が要約筆記の派遣事業を始めると同時に「まごのて」は要約筆記の派遣から手を引き、公的な派遣に乗らない要約筆記の依頼には対応し続けたものの、要約筆記者の派遣から、映画の字幕作りへとサークル活動の方向を変えた。ちなみに、公的な派遣制度に乗らない派遣依頼については、すでに別に書いたように、名古屋市登録要約筆記者の会ができたことで、すべてを移管し、サークルでの派遣には終止符を打った。
映画の字幕作りは、派遣制度の開始ときびすを返すようにして始まり、今日に及んでいる。一番活動が盛んだったときには年間6,7本の日本映画に字幕を付けていた。その活動で特筆すべきは、一般映画館で字幕を付けてきたということだ。確かに最初の頃は、字幕作りのノウハウを蓄積するために、自主映画祭などで字幕を付けたが、シネマスコーレという名古屋駅前の小さな映画館を振り出しに、松竹座、東映劇場、エルンゼル東宝、名宝スカラ座、国際劇場など、名古屋市内の多くの一般映画館で、字幕を付けてきた。要するに、普通の封切り映画館での通常の上映に字幕を持ち込んでいたのだ。「まごのて」では、こうした字幕付けの案内を名古屋市の民生局にいつも送っていたが、ある年、突然呼ばれ、今年から助成金を付ける、と言われた。したがって、その年から今日まで、「まごのて」の日本映画に字幕を付ける活動は、公的な助成の元で行なわれていることになる。また映画会社が、配給する映画に自ら字幕を付けることも増えた。上述したマップの左側の映画の領域(◆の領域)は、かなりの程度社会的にカバーされているといえるかも知れない。日本映画に字幕を付ける活動に公的な助成が付いている地域はたぶん他にはないと思うけれど、上記のマップで言えば、右上のその場の情報保障としての要約筆記者の派遣(★)と、左側の映画の字幕(◆)については、名古屋ではいずれも公的な支援の元で行なわれていることになる。
現在、「まごのて」はプラネタリウムの字幕に取り組んでいるが、これはマップで言えば、だいたい真ん中あたりの活動。まだ公的な助成の対象にはなっていないが、この活動が継続されていけばいずれ何らかの形で公的な支援が得られるはずだ。あるいは公的な取り組みになっていくはずだ。
上記の例は、要するに、そこにニーズがあるかどうか分からないとき、公的な支援は当然にない、そしてボランティアが先進的な取り組みを始め、そこにニーズがあることが明確になり、支援の形が整ってくると、それは社会的な支援の対象になる、ということだ。要求すれば叶うのではない。要求があるかどうかまだはっきりしない段階から、ほとんどの活動はスタートする。そのとき、社会福祉に関する活動としてのボランティア活動が果たす役割は大きい。そして、ボランティア活動を継続するとともに、その活動の専門性を明確にし、障害者団体とともに、その活動を定義し、社会的な要求として位置づけていく、そこまでできて、初めて公的な支援の対象となり、社会福祉事業として助成の対象となる、という関係だろう。
要約筆記者が中途失聴者・難聴者の要望を受けて、その聞こえの保障の広い活動領域に足を踏み込んだとき、公的な支援は何もなかった。そこから、ボランティア活動を通して蓄積したてきものが、一つずつ取り出され、専門性を持った取り組みとして、公的な支援の対象になっていく。その場の情報保障としての要約筆記は、その一つの例証だ。公的な裏付けのなかったサークル派遣から、奉仕員派遣事業として公的な支援の対象となり、更に奉仕員事業から社会福祉事業へと進もうとしている。そのことも重要だが、それよりも強く指摘しなければならないことは、「聞こえの保障」を実現すべき領域はまだまだ広く、その過半は手つかずのままだと言うことだ。
全難聴が提案した要約筆記者養成カリキュラムによる要約筆記者の養成と派遣とが速やか全国で始まって欲しい。要約筆記者の養成と派遣が、それが可能な地域で始まったとしても、それは単に★印の領域が、社会福祉事業として実施されるようになることに過ぎない。要約筆記に関わってきたボランティア(要約筆記奉仕員を含めて)が、取り組むべき聞こえの保障の領域はまだまだ広い。要約筆記者養成カリキュラムに関わる問題を早く整理して、次に進まなければならない。違うだろうか。
聞こえないが手話を使わない、あるいは使えない聴覚障害者の存在にいち早く気づき支援を始めたのは、手話通訳者の一部の方々だったが、手話に代えて、話しことばを文字にして伝えようとする活動は、やがて「要約筆記者」に引き継がれて行った。中途失聴者・難聴者が求めたのは「聞こえの保障」であって、単に会議の通訳ではなかった。要約筆記者もその要求の切実なことを知り、聞こえの保障を求める運動に積極的に関わってきた。聞こえないことで隔てられた音声情報を取り戻すために音声を文字化して伝える試みは、OHPの上に透明なシートをおいて油性ペンで書き、その場の情報を伝えることだけではなく、日本映画に字幕を付けること、講演などの録音をテープ起こしして提供するなど、様々な取り組みとして行なわれた。そして現在も続いている。
様々な分類が可能だが、音声情報をたとえば次の二つの軸を使って整理してみることができる。
横軸:前もって準備できるものか、その場で対応するしかないものか
縦軸:話の内容が重要か、どんな風には話されたかといった表現が重要か
内容が重要
☆ ↑ ★ 会議
事 | 講演
前 ◆映画 プラネタリウム
に←————————┼——————→その場で発言
準 芝居 |
備 |
落語 ↓
表現が重要
(等幅フォントで表示してください)
例えば映画の音声は、事前に字幕として準備しておき、映画の上映に合わせて、映画スクリーンの横に投影する事ができる。したがって、こうした事前に準備できるものは横軸の一番左端に位置する。会議などで出席者が話すことはその場での発言だから、事前に準備することは難しい。これは横軸だと一番右側にくる。名古屋市科学館での上演は、学芸員の話す内容がある程度分かっているが、毎回同じではない、という意味では、横軸の真ん中くらいか。落語なども、話す内容はだいたい同じだが、事前に字幕をすべて用意できる訳ではないという点で似ている。
他方、議論しているときの誰かの意見は、その内容が一番重要だ。提案に賛成なのか反対なのか、その理由は何か、ということが重要であって、名古屋弁で賛成したか関西弁で反対したかは問題には(普通は)ならない。これは縦軸の一番上に来る。他方、落語であれば、話す内容はほぼ決まっているが、どう話すかが重要になる。同じ話を二つ目が演るのと、名人が演ずるのではまるで違う。芸術は、つまるところ表現に宿るのだ。縦軸上では、一番下に位置づけられるだろう。
こうやって様々な音声情報を、この二つの軸を使って分類してみる。そうすると、例えば駅など交通機関の案内放送でも、次の駅名の案内なら事前に準備しておけるし、内容(駅名)が重要だから、左の上(☆印のところ)。一方、事故などで止まったときは、事前に準備しておけず、内容重視だから、右上(★印のところ)、となる。
この広い音声情報の世界のどこが現時点である程度保障され、どこが保障されていないだろうか。その検討をする前に、まず誰がこの音声情報の世界を聞こえない人に伝えたいと考えたかを思ってみてほしい。まず家族が何とかしようと考えたことは間違いない。それは、聴覚障害児の体験談を伺うとよく分かる。学校の授業を子どもにすべて録音させ、夜っぴて家族で(大部分は母親が)テープ起こししてきたという話を聞くことがある。しかしあらゆる場所に家族だけで対応できないことははっきりしている。次第に社会的な支援の必要性が理解され、ボランティアによる対応が始まる。とはいえ、初期の頃のボランティアには、「聞こえない家族がいて」とか「聞こえない友人に頼まれて」とか、何らかの係累を持っているケースが多かったように思う。それはある程度当然だと思う。なぜなら、中途失聴者・難聴者がどういう支援を必要としているか、という整理はされておらず、その要求がある程度分かっているのは関係者だけだったのだから。
ボランティアによる対応が始まって、どのような支援が必要であり、可能なのかが分かってきて初めて行政による公的な支援が始まる。この関係は、後になるとなかなかわかりにくくなる。手話通訳が必要だとか、要約筆記が必要だ、公的な派遣は当然だ、と現時点では考えるけれど、支援の始まりにおいては、そのことは分かっていない。第一、手話通訳や要約筆記という方法で音声情報を伝えることが可能かどうか、誰も知らなかったのだから。
名古屋の場合、要約筆記者の派遣は、厚生省(当時)のいわゆるメニュー事業に要約筆記者派遣事業が入る一年前(1984年)から始まっている(メニュー事業に入ったのは1985年)。それは、1978年に名古屋に生まれた「まごのて」というサークルが毎年多数の要約筆記派遣を引き受け、そのデータを年度ごとに名古屋市に提出してきたということ、そしてその派遣依頼の過半を占めていた名難聴(当時は名聴連のB部)が、苦しい財政をやりくりしながら、その派遣の謝礼を負担し、行政に対して、自分たちには要約筆記が必要だ、そしてそのためにはこれだけの費用がかかるのだ、と要求し続けてきた、ということ、この二つの事実が大きい。上述した情報保障の広い領域の中で、この部分(★印のあたり)、つまり難聴者の会議などの情報保障を、要約筆記という方法でカバーできることを実践的に示し、そのデータをもって行政に要望していくことで初めて公的な支援が実現した。それなしにはどのような支援も公的な支援として取り出されることはないのだ。
名古屋市が要約筆記の派遣事業を始めると同時に「まごのて」は要約筆記の派遣から手を引き、公的な派遣に乗らない要約筆記の依頼には対応し続けたものの、要約筆記者の派遣から、映画の字幕作りへとサークル活動の方向を変えた。ちなみに、公的な派遣制度に乗らない派遣依頼については、すでに別に書いたように、名古屋市登録要約筆記者の会ができたことで、すべてを移管し、サークルでの派遣には終止符を打った。
映画の字幕作りは、派遣制度の開始ときびすを返すようにして始まり、今日に及んでいる。一番活動が盛んだったときには年間6,7本の日本映画に字幕を付けていた。その活動で特筆すべきは、一般映画館で字幕を付けてきたということだ。確かに最初の頃は、字幕作りのノウハウを蓄積するために、自主映画祭などで字幕を付けたが、シネマスコーレという名古屋駅前の小さな映画館を振り出しに、松竹座、東映劇場、エルンゼル東宝、名宝スカラ座、国際劇場など、名古屋市内の多くの一般映画館で、字幕を付けてきた。要するに、普通の封切り映画館での通常の上映に字幕を持ち込んでいたのだ。「まごのて」では、こうした字幕付けの案内を名古屋市の民生局にいつも送っていたが、ある年、突然呼ばれ、今年から助成金を付ける、と言われた。したがって、その年から今日まで、「まごのて」の日本映画に字幕を付ける活動は、公的な助成の元で行なわれていることになる。また映画会社が、配給する映画に自ら字幕を付けることも増えた。上述したマップの左側の映画の領域(◆の領域)は、かなりの程度社会的にカバーされているといえるかも知れない。日本映画に字幕を付ける活動に公的な助成が付いている地域はたぶん他にはないと思うけれど、上記のマップで言えば、右上のその場の情報保障としての要約筆記者の派遣(★)と、左側の映画の字幕(◆)については、名古屋ではいずれも公的な支援の元で行なわれていることになる。
現在、「まごのて」はプラネタリウムの字幕に取り組んでいるが、これはマップで言えば、だいたい真ん中あたりの活動。まだ公的な助成の対象にはなっていないが、この活動が継続されていけばいずれ何らかの形で公的な支援が得られるはずだ。あるいは公的な取り組みになっていくはずだ。
上記の例は、要するに、そこにニーズがあるかどうか分からないとき、公的な支援は当然にない、そしてボランティアが先進的な取り組みを始め、そこにニーズがあることが明確になり、支援の形が整ってくると、それは社会的な支援の対象になる、ということだ。要求すれば叶うのではない。要求があるかどうかまだはっきりしない段階から、ほとんどの活動はスタートする。そのとき、社会福祉に関する活動としてのボランティア活動が果たす役割は大きい。そして、ボランティア活動を継続するとともに、その活動の専門性を明確にし、障害者団体とともに、その活動を定義し、社会的な要求として位置づけていく、そこまでできて、初めて公的な支援の対象となり、社会福祉事業として助成の対象となる、という関係だろう。
要約筆記者が中途失聴者・難聴者の要望を受けて、その聞こえの保障の広い活動領域に足を踏み込んだとき、公的な支援は何もなかった。そこから、ボランティア活動を通して蓄積したてきものが、一つずつ取り出され、専門性を持った取り組みとして、公的な支援の対象になっていく。その場の情報保障としての要約筆記は、その一つの例証だ。公的な裏付けのなかったサークル派遣から、奉仕員派遣事業として公的な支援の対象となり、更に奉仕員事業から社会福祉事業へと進もうとしている。そのことも重要だが、それよりも強く指摘しなければならないことは、「聞こえの保障」を実現すべき領域はまだまだ広く、その過半は手つかずのままだと言うことだ。
全難聴が提案した要約筆記者養成カリキュラムによる要約筆記者の養成と派遣とが速やか全国で始まって欲しい。要約筆記者の養成と派遣が、それが可能な地域で始まったとしても、それは単に★印の領域が、社会福祉事業として実施されるようになることに過ぎない。要約筆記に関わってきたボランティア(要約筆記奉仕員を含めて)が、取り組むべき聞こえの保障の領域はまだまだ広い。要約筆記者養成カリキュラムに関わる問題を早く整理して、次に進まなければならない。違うだろうか。
2007年09月12日
平田オリザ「対話のレッスン」小学館
平田オリザの書いたものを、時々読んでいる。東京現代美術館で、彼らの「東京ノート」を見たのはもう5年ほど前になる。そこには見慣れない「劇的なるもの」があった。それまで、私にとっての劇的なるものは、例えば仙台広瀬川河畔の西公園で経験した唐十郎のテント興行、早稲田小劇場が利賀の合掌造りの舞台で見せたオセロ、佐藤信の演出で結城座で見た人形芝居・マクベス、などだった。
「東京ノート」は、それらの演劇とは全く違う。全く違うけれど、舞台(東京現代美術館ロビー)での会話には、独特の緊張感があった。「対話のレッスン」を読んでいて、何度かあの「東京ノート」の登場人物の会話を思い出した。この本の中で、平田オリザは、現代における対話の重要性を繰り返し説いている。著者は、「対話」を「会話」との対比を通して次のように定義する。「『会話』が、お互いの細かい事情や来歴を知った者同士のさらなる合意形成に重きを置くのに対して、「対話」は、異なる価値観のすり合わせ、差違から出発するコミュニケーションの回復に重点を置く」と。なるほど、演劇は確かに対話を重要な要素としている。互いに対立する価値観や利害関係を持った登場人物が交わす会話が、演劇の推進力になる。
今日、2007年9月12日、安倍首相が辞意を表明したが、所信表明演説をすませた首相が、代表質問の前に辞めてしまう、というのは、対話の放棄だろう。価値観の違う者が、いくら演説をしあっても、そこから価値観のすり合わせは生まれない。このブログでも何度か取り上げている要約筆記に関する混迷を巡って、最近、全国要約筆記問題研究会が毎月発行している「全要研ニュース」誌上で、二つの立場からの投稿が続いているが、それは「対話」になっているだろうか。演説でもディベートでもなく、「対話」すること、異なる価値観のすりあわせを、両者の立場の差違から始めること、それが求められている。今年、全要研は、10年続いた「全国要約筆記研究討論集会」の非開催を決めているが、いっそ公開討論会を開いてはどうか。いや、違った。「公開対話集会」を開いてはどうか。
「東京ノート」は、それらの演劇とは全く違う。全く違うけれど、舞台(東京現代美術館ロビー)での会話には、独特の緊張感があった。「対話のレッスン」を読んでいて、何度かあの「東京ノート」の登場人物の会話を思い出した。この本の中で、平田オリザは、現代における対話の重要性を繰り返し説いている。著者は、「対話」を「会話」との対比を通して次のように定義する。「『会話』が、お互いの細かい事情や来歴を知った者同士のさらなる合意形成に重きを置くのに対して、「対話」は、異なる価値観のすり合わせ、差違から出発するコミュニケーションの回復に重点を置く」と。なるほど、演劇は確かに対話を重要な要素としている。互いに対立する価値観や利害関係を持った登場人物が交わす会話が、演劇の推進力になる。
今日、2007年9月12日、安倍首相が辞意を表明したが、所信表明演説をすませた首相が、代表質問の前に辞めてしまう、というのは、対話の放棄だろう。価値観の違う者が、いくら演説をしあっても、そこから価値観のすり合わせは生まれない。このブログでも何度か取り上げている要約筆記に関する混迷を巡って、最近、全国要約筆記問題研究会が毎月発行している「全要研ニュース」誌上で、二つの立場からの投稿が続いているが、それは「対話」になっているだろうか。演説でもディベートでもなく、「対話」すること、異なる価値観のすりあわせを、両者の立場の差違から始めること、それが求められている。今年、全要研は、10年続いた「全国要約筆記研究討論集会」の非開催を決めているが、いっそ公開討論会を開いてはどうか。いや、違った。「公開対話集会」を開いてはどうか。
2007年09月11日
星空に字幕を
地元の要約筆記サークル・まごのてでは、この10年ほど、名古屋市科学館で上映されるプラネタリウムに字幕を付けるという試みを、地元の難聴者協会・名難聴やパソコン要約筆記なごや組とともに行なっている。今日はちょっとその話をしたい。というのは、次回の上演の期日が近づいており、その案内の発送をそろそろ行なうからだ。
写真は、名古屋市科学館の天文館・プラネタリウムで実際に投影された字幕の様子を写したものだ。科学館の公式サイトにも、簡単だが、字幕投影のシステムについて掲示がある。また上記の名難聴のサイトにも詳しい解説が掲載されている。
プラネタリウムの上演に字幕を付けるといっても何のことかピンと来ない方も多いと思う。名古屋市科学館の場合、複数の学芸員の方がおられ、毎回約1時間の上演を交代で担当される。解説はその時々の夜空の星座の話が定番としてあり、それに加えて、毎月のトピックが決まっている。先回字幕を付けた2007年7月は、「流星群の夜」。ペルセウス座流星群の話が取り上げられた。今回の字幕付け上演は、
10月27日(土) 10時から
の予定だ。10月の場合、通常の上演のテーマは、「未来の北極星」とだが、今回は小学校低学年の子どもたちを想定したキッズアワーなので、テーマは、「そらとぶうまのだいぼうけん」だ。キッズアワーの場合、学芸員の方は、会場の子どもたちに質問をしたりして、会場一体となった楽しい時間になる。それを字幕にして、星が輝いているプラネタリウムのドームに一緒に投影する。文字の間に一等星が輝いていたりする。
こうしたプラネタリウムの字幕付き上演もすでに20回を超えた。20回を超える上演の経験から分かってきたことは、プラネタリウムのように、ある対象(ここでは多くは星空)を見せながらの語り(学芸員の語り)を聞こえない人に伝えるとう作業は、いわゆるその場の通訳である要約筆記通訳とも、映画の字幕とも異なる独自の課題があり、固有の解決方法が必要になる、ということだ。
星空の解説がビデオなどを用いて行なわれる場合は、解説の内容を伝える情報保障は、映画の字幕によるものに近いだろう。話される内容は決まっているからだ。名古屋市科学館の場合は、学芸員の方が自在に話をされる。会場の雰囲気、入場者の年齢層、上演前後の天文現象などに合わせて、毎回の上演の内容は異なる。
また、学芸員の方は、ポインタ(矢印←)を使って、星の場所や星の動きなどを示すことも少なくない。「この赤い星と、こちらの青い星をつないで・・・」と話しながら、赤い星と青い星を順番にポインタで指していく。解説の言葉から文字が出るまでに一定時間以上の遅れがあれば、字幕を出しても、情報保障としてはうまく機能しない。
プラネタリウムの上演に字幕を付け始めた最初の頃は、そのあたりの課題については、ほとんど分かっていなかった。機材を用い、字幕の投影ができただけで喜んでいた。しかし年一、二回の上演を継続するなかで、次第に、情報保障の課題が見えてきたのだ。あらかじめ全文が準備できる映画の字幕でもなく、その場の情報保障である通訳としての要約筆記でもない独自の活動領域がそこにはある。おそらく学校教育の場の情報保障の持っている課題と、それは似ているのではないか、そう思っている。
字幕付きの日本映画の上映は、最近少し広がってきているが、プラネタリウムの字幕付き上演はまだまだ珍しい。字幕付きの上演を体験して、自分が小学生の頃にこんなサポートがあったら、確かな情報を受け取れたはず、星空を楽しむだけでなく、確実な情報を手に入れられたら、もっと自信を持って生きられたと思う−という感想を寄せてくださった方があった。聞こえない人にとって、音声による情報、あるいは音声を伴う情報を確実に手に入れることはなかなか難しい。様々な支援があり得る。どれか一つの支援で足りるというものではないのだ。
まごのてというサークルは、OHPを使った要約筆記の黎明期に活動を始め、日本映画の字幕付き上映、プラネタリウムの字幕付き上演など、様々な支援に取り組んできた。ボランティアサークルらしい先進的な支援の取り組みに、私も継続して協力していきたい。
写真は、名古屋市科学館の天文館・プラネタリウムで実際に投影された字幕の様子を写したものだ。科学館の公式サイトにも、簡単だが、字幕投影のシステムについて掲示がある。また上記の名難聴のサイトにも詳しい解説が掲載されている。
プラネタリウムの上演に字幕を付けるといっても何のことかピンと来ない方も多いと思う。名古屋市科学館の場合、複数の学芸員の方がおられ、毎回約1時間の上演を交代で担当される。解説はその時々の夜空の星座の話が定番としてあり、それに加えて、毎月のトピックが決まっている。先回字幕を付けた2007年7月は、「流星群の夜」。ペルセウス座流星群の話が取り上げられた。今回の字幕付け上演は、
10月27日(土) 10時から
の予定だ。10月の場合、通常の上演のテーマは、「未来の北極星」とだが、今回は小学校低学年の子どもたちを想定したキッズアワーなので、テーマは、「そらとぶうまのだいぼうけん」だ。キッズアワーの場合、学芸員の方は、会場の子どもたちに質問をしたりして、会場一体となった楽しい時間になる。それを字幕にして、星が輝いているプラネタリウムのドームに一緒に投影する。文字の間に一等星が輝いていたりする。
こうしたプラネタリウムの字幕付き上演もすでに20回を超えた。20回を超える上演の経験から分かってきたことは、プラネタリウムのように、ある対象(ここでは多くは星空)を見せながらの語り(学芸員の語り)を聞こえない人に伝えるとう作業は、いわゆるその場の通訳である要約筆記通訳とも、映画の字幕とも異なる独自の課題があり、固有の解決方法が必要になる、ということだ。
星空の解説がビデオなどを用いて行なわれる場合は、解説の内容を伝える情報保障は、映画の字幕によるものに近いだろう。話される内容は決まっているからだ。名古屋市科学館の場合は、学芸員の方が自在に話をされる。会場の雰囲気、入場者の年齢層、上演前後の天文現象などに合わせて、毎回の上演の内容は異なる。
また、学芸員の方は、ポインタ(矢印←)を使って、星の場所や星の動きなどを示すことも少なくない。「この赤い星と、こちらの青い星をつないで・・・」と話しながら、赤い星と青い星を順番にポインタで指していく。解説の言葉から文字が出るまでに一定時間以上の遅れがあれば、字幕を出しても、情報保障としてはうまく機能しない。
プラネタリウムの上演に字幕を付け始めた最初の頃は、そのあたりの課題については、ほとんど分かっていなかった。機材を用い、字幕の投影ができただけで喜んでいた。しかし年一、二回の上演を継続するなかで、次第に、情報保障の課題が見えてきたのだ。あらかじめ全文が準備できる映画の字幕でもなく、その場の情報保障である通訳としての要約筆記でもない独自の活動領域がそこにはある。おそらく学校教育の場の情報保障の持っている課題と、それは似ているのではないか、そう思っている。
字幕付きの日本映画の上映は、最近少し広がってきているが、プラネタリウムの字幕付き上演はまだまだ珍しい。字幕付きの上演を体験して、自分が小学生の頃にこんなサポートがあったら、確かな情報を受け取れたはず、星空を楽しむだけでなく、確実な情報を手に入れられたら、もっと自信を持って生きられたと思う−という感想を寄せてくださった方があった。聞こえない人にとって、音声による情報、あるいは音声を伴う情報を確実に手に入れることはなかなか難しい。様々な支援があり得る。どれか一つの支援で足りるというものではないのだ。
まごのてというサークルは、OHPを使った要約筆記の黎明期に活動を始め、日本映画の字幕付き上映、プラネタリウムの字幕付き上演など、様々な支援に取り組んできた。ボランティアサークルらしい先進的な支援の取り組みに、私も継続して協力していきたい。
2007年09月05日
茂木健一郎「脳と仮想」(新潮文庫)
茂木健一郎の「脳と仮想」を読み終わる。これは、ある意味で奇妙な本だ。私にはなぜ私という意識が宿るのか、という問題意識。世界のあらゆることは、仮想としてしか私たちには認識できない、という主張。そう言ってしまうと、何かが違う。この本の指し示していることがするりと抜けてしまう、という感触が読後に残る。
「私」とは何か、「意識」とは何か、というデカルト以来の命題を、「脳」という物理的な存在を踏まえつつ、再度吟味しようとする。考えてみると、最近この手のアプローチはいくつか提案されている。そう思って部屋の本箱を見直すと、「心の起源」(木下清一郎)中公新書とか、似た感じの本を買っている。しかしこれら類似の本と比べて、「脳と仮想」には際だって異なる印象がある。それはなぜか。
おそらく、著者が、小林秀雄の問題意識を自分の課題のように受け止めて小林秀雄の言葉を引く、夏目漱石の「三四郎」の言葉を引く、養老孟司とテレビゲームという組み合わせを深いところまで追求する、というその手法が、脳と仮想というとらえにくいテーマを、俄然具体的なもの、手触りのあるものにする。デカルト以来、疑い得ないものとして確立された「我(われ)」の意識は、「我」以外のもの、要するに物質世界を、因果律によって操作される対象としてとらえ、徹底的に操作してきた。その成果は大きい。少なくとも人を月まで運んで帰還させることができる程度の成果は上げてきた。
他方、デカルトが自らの問いに答えたときに確立されたはずの「我」は、その後、どのように扱われてきたのか、といえば、「我」の意識は、科学的操作によっては扱えないものとして、棚上げされてきたのだ。「脳と仮想」は、棚上げされてきたその課題を、小林秀雄の追求を杖にして、「サンタクロースはいるの?」という少女の声を契機に、いくつかの小説や映画を引用しつつ、言葉によって他者と分かり合えるとはどういうことかを問いながら、要するに科学的なアプローチと呼ばれてきた方法とは全く異なる方法で、考えようとする。いや、まだそこまで行けない。考えるべき課題がそこにあることを示そうとする。
脳は、物理的には、150億個とも言われる神経細胞のネットワークである。その150億個の神経細胞の絡み合い、ネットワークの構成に意識が宿る。それはどうやら確かなことのようだ。しかし、なぜそこに意識が、「我」が宿るのか、宿った意識は、外界を直接は知ることかできない、にもかかわらず、あるいは、だからこそ、経験ができることよりも広い世界を仮想することができる。その不思議。
不思議な感覚に引っ張られるまま、読み終えた。まだその感覚の中にいる。
「私」とは何か、「意識」とは何か、というデカルト以来の命題を、「脳」という物理的な存在を踏まえつつ、再度吟味しようとする。考えてみると、最近この手のアプローチはいくつか提案されている。そう思って部屋の本箱を見直すと、「心の起源」(木下清一郎)中公新書とか、似た感じの本を買っている。しかしこれら類似の本と比べて、「脳と仮想」には際だって異なる印象がある。それはなぜか。
おそらく、著者が、小林秀雄の問題意識を自分の課題のように受け止めて小林秀雄の言葉を引く、夏目漱石の「三四郎」の言葉を引く、養老孟司とテレビゲームという組み合わせを深いところまで追求する、というその手法が、脳と仮想というとらえにくいテーマを、俄然具体的なもの、手触りのあるものにする。デカルト以来、疑い得ないものとして確立された「我(われ)」の意識は、「我」以外のもの、要するに物質世界を、因果律によって操作される対象としてとらえ、徹底的に操作してきた。その成果は大きい。少なくとも人を月まで運んで帰還させることができる程度の成果は上げてきた。
他方、デカルトが自らの問いに答えたときに確立されたはずの「我」は、その後、どのように扱われてきたのか、といえば、「我」の意識は、科学的操作によっては扱えないものとして、棚上げされてきたのだ。「脳と仮想」は、棚上げされてきたその課題を、小林秀雄の追求を杖にして、「サンタクロースはいるの?」という少女の声を契機に、いくつかの小説や映画を引用しつつ、言葉によって他者と分かり合えるとはどういうことかを問いながら、要するに科学的なアプローチと呼ばれてきた方法とは全く異なる方法で、考えようとする。いや、まだそこまで行けない。考えるべき課題がそこにあることを示そうとする。
脳は、物理的には、150億個とも言われる神経細胞のネットワークである。その150億個の神経細胞の絡み合い、ネットワークの構成に意識が宿る。それはどうやら確かなことのようだ。しかし、なぜそこに意識が、「我」が宿るのか、宿った意識は、外界を直接は知ることかできない、にもかかわらず、あるいは、だからこそ、経験ができることよりも広い世界を仮想することができる。その不思議。
不思議な感覚に引っ張られるまま、読み終えた。まだその感覚の中にいる。
2007年09月02日
指導者養成講習会終了
名古屋では、7月から9月1日まで、要約筆記指導者養成講習会が開かれていた。私も受講していたのだが、とても良い講習会だった。要約筆記者養成講座で、受講生を指導する、受講生に要約筆記を教えるとはどういうことなのか、原点に戻り、しかも方法論がしっかりした内容だった。(写真は養成講習会の一コマ)
しかし、それより何よりうれしかったのは、名古屋の要約筆記の養成・指導が、新しいフェーズに入ったと感じられたことだった。名古屋の要約筆記の歴史はかなり古い。要約筆記奉仕員養成が、厚生省のメニューに事業に入った年(1981年)から講座は開かれている。毎年の講座で、講師を担当してこられた方は、本当に一生懸命教えてこられた。けれども、それは個人個人の工夫に支えられたものだった。個人の工夫はもとより尊い。だが、組織だった対応、ということを考えると、個人個人の対応では、限界があった。
話を少し前に戻して、地域の要約筆記事業がどうあるべきかということをおさらいしてみよう。私が考える要約筆記事業のあるべき姿は、次のようものだ。
(1)要約筆記の派遣が公的に行なわれている。派遣窓口、派遣される要約筆記者の手配などは、公的機関もしくはこれに準ずる機関が行なう。
(2)派遣される要約筆記者は、ボランティアではなく、公的な制度に組み込まれた要約筆記者である。それは、要約筆記が必要な人が、今日も、明日も、来年も、10年後も、必要なときに必要なコミュニケーション支援が受けられる、ということだ。ボランティアとしての対応では、制度的に安定な支援は得られない可能性があるからだ。ボランティアももちろん必要だし、社会全体が、聞こえない人に対して理解を深めることも大切だが、支援が必要な人に必要な支援を提供できる、という点を考えると、要約筆記者の身分保障も含めて、公的な制度の構築は、どうしても必要だ。
(3)要約筆記者養成についての一貫した指導体制がある。上記の通り、個人個人の工夫も大切だが、それを超えて、地域の指導体制が確立していることが望ましい。でないと、この年は良い講座だったが、翌年は不十分だった、という可能性がある。また同じ年の講座でも、○○講師の内容は良かったが、××講師の話は分からなかった、などと言うことになりかねない。養成カリキュラムについての理解、指導案の作成技術、講座での指導方法、などを講師が共有し、一貫した内容を、質の揃った指導で、教えられる体制があることは、受講生にとっても、またやがてその受講生を受け入れて派遣をする派遣元にとっても、その派遣を受けてコミュニケーション支援として活用する聴覚障害者にとっても、望ましい。
(4)地域の要約筆記サークルと登録要約筆記者の会が、互いの役割を理解して棲み分けている。要約筆記サークルは、多くの地域で要約筆記活動の母体となっている。名古屋とて例外ではない。しかしサークルがいくらガンバつても、登録要約筆記者の会の代替はできない。そもそも制度上の役割が全く違うからだ。サークルには、様々な人がいる。守秘義務もない。要約筆記の技術もまちまちだろう。と同時にボランティアサークルは、要約筆記通訳だけを目的とした集まりではないから、様々な活動に対して開かれている。先駆的な活動は、サークルがまず取り組み、次第にその専門性が明らかになっていくことで、新しい制度が生まれ、社会に定着していくということは多い。サークルと登録要約筆記者の会が、ごちゃごちゃに活動しているのではなく、お互いの役割と責任を理解して、活動を棲み分けている、ということは重要だが、意外に整理されていない点だと思う。
こうした点を考えると、名古屋の場合、要約筆記奉仕員養成・派遣は、一貫して(社)名身連が行なってきたので、(1)の条件は一応満足している。また、昨年、「名古屋市登録要約筆記者の会(登要会なごや)」が生まれ、従来からあった要約筆記サークル・まごのてとの間で、役割分担についてはうまく整理ができた。例えば、公的な派遣制度にのらない要約筆記の依頼があった場合、まごのては、サークルへの依頼があっても引き受けず、登要会なごやが対応する(要約筆記通訳が必要な場面ではサークル員ではなく要約筆記者が対応するのが原則)、といったことを双方が確認してきた。まごのては、プラネタリウムの字幕付き上演など、ボランティアサークルとして先駆的な活動に取り組むなど。これは、上記の(4)の条件がある程度満たされているということだ。
そして今回の要約筆記指導者養成講習会。上記の(3)の条件が整ったことになる。
残された課題は(2)。これは、要約筆記奉仕員から要約筆記者へということだ。前にも書いたが、要約筆記奉仕員がまるごと要約筆記者に変わるという話ではない。公的な派遣制度の担い手は「要約筆記者」になるべきだ、ということだ。要約筆記奉仕員には、障害者自立支援法の要綱(別記6)にも記載されているように、「スポーツ・芸術文化活動等を行うことにより、障害者の社会参加を促進することを目的とする」事業がある。
http://www.mhlw.go.jp/topics/2006/bukyoku/syougai/j01a.html
(これは、とても重要な事業だと思うが、この点についてはまた別に書きたい)
要約筆記の公的な派遣は、奉仕員制度によってではなく、社会福祉事業として行なわれるべきだと思う。この点が名古屋の場合、まだ未解決の問題として残っているが、(1)(4)の条件に加えて、(3)の条件が整ったことを、私は、心から喜んでいる。私自身、名古屋市の要約筆記者養成講座には講師として何年も関わってきたが、こうした指導体制を作ることはできなかった。それが、登要会なこやができ、その主導の下で、30時間の指導者養成講座を開き、指導方法について、一から共通理解を作り上げる、ということができた。これは、今後の10年、20年の活動の礎になる。講習会の実現に尽力された登要会会長と事務局長、受講料を払って参加し熱心に学んだ受講生、そしてそれを支えた登要会のメンバーに、心からお礼を言いたい。
本当にありがとう。
しかし、それより何よりうれしかったのは、名古屋の要約筆記の養成・指導が、新しいフェーズに入ったと感じられたことだった。名古屋の要約筆記の歴史はかなり古い。要約筆記奉仕員養成が、厚生省のメニューに事業に入った年(1981年)から講座は開かれている。毎年の講座で、講師を担当してこられた方は、本当に一生懸命教えてこられた。けれども、それは個人個人の工夫に支えられたものだった。個人の工夫はもとより尊い。だが、組織だった対応、ということを考えると、個人個人の対応では、限界があった。
話を少し前に戻して、地域の要約筆記事業がどうあるべきかということをおさらいしてみよう。私が考える要約筆記事業のあるべき姿は、次のようものだ。
(1)要約筆記の派遣が公的に行なわれている。派遣窓口、派遣される要約筆記者の手配などは、公的機関もしくはこれに準ずる機関が行なう。
(2)派遣される要約筆記者は、ボランティアではなく、公的な制度に組み込まれた要約筆記者である。それは、要約筆記が必要な人が、今日も、明日も、来年も、10年後も、必要なときに必要なコミュニケーション支援が受けられる、ということだ。ボランティアとしての対応では、制度的に安定な支援は得られない可能性があるからだ。ボランティアももちろん必要だし、社会全体が、聞こえない人に対して理解を深めることも大切だが、支援が必要な人に必要な支援を提供できる、という点を考えると、要約筆記者の身分保障も含めて、公的な制度の構築は、どうしても必要だ。
(3)要約筆記者養成についての一貫した指導体制がある。上記の通り、個人個人の工夫も大切だが、それを超えて、地域の指導体制が確立していることが望ましい。でないと、この年は良い講座だったが、翌年は不十分だった、という可能性がある。また同じ年の講座でも、○○講師の内容は良かったが、××講師の話は分からなかった、などと言うことになりかねない。養成カリキュラムについての理解、指導案の作成技術、講座での指導方法、などを講師が共有し、一貫した内容を、質の揃った指導で、教えられる体制があることは、受講生にとっても、またやがてその受講生を受け入れて派遣をする派遣元にとっても、その派遣を受けてコミュニケーション支援として活用する聴覚障害者にとっても、望ましい。
(4)地域の要約筆記サークルと登録要約筆記者の会が、互いの役割を理解して棲み分けている。要約筆記サークルは、多くの地域で要約筆記活動の母体となっている。名古屋とて例外ではない。しかしサークルがいくらガンバつても、登録要約筆記者の会の代替はできない。そもそも制度上の役割が全く違うからだ。サークルには、様々な人がいる。守秘義務もない。要約筆記の技術もまちまちだろう。と同時にボランティアサークルは、要約筆記通訳だけを目的とした集まりではないから、様々な活動に対して開かれている。先駆的な活動は、サークルがまず取り組み、次第にその専門性が明らかになっていくことで、新しい制度が生まれ、社会に定着していくということは多い。サークルと登録要約筆記者の会が、ごちゃごちゃに活動しているのではなく、お互いの役割と責任を理解して、活動を棲み分けている、ということは重要だが、意外に整理されていない点だと思う。
こうした点を考えると、名古屋の場合、要約筆記奉仕員養成・派遣は、一貫して(社)名身連が行なってきたので、(1)の条件は一応満足している。また、昨年、「名古屋市登録要約筆記者の会(登要会なごや)」が生まれ、従来からあった要約筆記サークル・まごのてとの間で、役割分担についてはうまく整理ができた。例えば、公的な派遣制度にのらない要約筆記の依頼があった場合、まごのては、サークルへの依頼があっても引き受けず、登要会なごやが対応する(要約筆記通訳が必要な場面ではサークル員ではなく要約筆記者が対応するのが原則)、といったことを双方が確認してきた。まごのては、プラネタリウムの字幕付き上演など、ボランティアサークルとして先駆的な活動に取り組むなど。これは、上記の(4)の条件がある程度満たされているということだ。
そして今回の要約筆記指導者養成講習会。上記の(3)の条件が整ったことになる。
残された課題は(2)。これは、要約筆記奉仕員から要約筆記者へということだ。前にも書いたが、要約筆記奉仕員がまるごと要約筆記者に変わるという話ではない。公的な派遣制度の担い手は「要約筆記者」になるべきだ、ということだ。要約筆記奉仕員には、障害者自立支援法の要綱(別記6)にも記載されているように、「スポーツ・芸術文化活動等を行うことにより、障害者の社会参加を促進することを目的とする」事業がある。
http://www.mhlw.go.jp/topics/2006/bukyoku/syougai/j01a.html
(これは、とても重要な事業だと思うが、この点についてはまた別に書きたい)
要約筆記の公的な派遣は、奉仕員制度によってではなく、社会福祉事業として行なわれるべきだと思う。この点が名古屋の場合、まだ未解決の問題として残っているが、(1)(4)の条件に加えて、(3)の条件が整ったことを、私は、心から喜んでいる。私自身、名古屋市の要約筆記者養成講座には講師として何年も関わってきたが、こうした指導体制を作ることはできなかった。それが、登要会なこやができ、その主導の下で、30時間の指導者養成講座を開き、指導方法について、一から共通理解を作り上げる、ということができた。これは、今後の10年、20年の活動の礎になる。講習会の実現に尽力された登要会会長と事務局長、受講料を払って参加し熱心に学んだ受講生、そしてそれを支えた登要会のメンバーに、心からお礼を言いたい。
本当にありがとう。