2007年08月24日
米原万里の「愛の法則」(集英社新書)
今日東京に行く新幹線の中で読み終わったのだが、とても面白かった。この希有なロシア語通訳者を失ったことを改めて残念に思う。
この本は、四つの講演の記録からなるのだが、もっとも興味を引かれたのは、最後の短い講演録。これは神奈川県要約筆記協会で行われたものだ。「要約筆記」は、聴覚障害者のコミュニケーションを支援するものだが、「手話」ほどは知られていない。聴力が低下している難聴者や、人生の半ばで聴力を失った中途失聴者の場合、手話を学んでいるケースは少ないし、学んだとしてもいわば外国語であって、自由に使いこなさせるようになるには、相当の修練を要する。そこで聞こえるものが、人の話を聞き取ってこれを書いて伝えるという方法、要約筆記が生まれた。今から40年くらい前のことだ。
「愛の法則」の中でも、要約筆記が知られていないことを配慮してか、例示として残されているのは「手話」という言葉のみ。せっかく要約筆記協会で行われた講演だというのに、とても残念。
しかし、通訳というものが、いったい何をする行為なのか、という点についての米原さんの理解と指摘、そして解説は誠に深い。私はこれまで、通訳は、他人の話を聞いて理解し、理解した概念を、通訳者が他の言語(要約筆記の場合は書き言葉)で再現することだと理解してきた。そのこと自体は、米原さんの理解と主張と変わらないのだが、この本の中で米原さんは、そもそも人がコミュニケーションするとは、話し手が言語という記号に託したものを、聞き手が記号から再生する(再現する)ことだという。そのことをわかりやすく示すために、米原さんは、神様に言葉でお願いしたとき、願いは正確にかなえられるか、という設問をする。「美人にしてください」と言葉で願ったとき、神様が考えている「美人」が願っている人が望んでいる「美人」に一致している保証はない。
なんだ、コミュニケーションが、結局、話し手が言おうとしたなにやらもやもやした概念を言葉という記号に置き換えること、そして聞き手はこの記号から、話し手の意図したもの、言いたかったもやもやっとしたものを再現すること、からなっている、というなら、通訳者だけが特殊なことをしている訳じゃなかったんだ。
この本は、四つの講演の記録からなるのだが、もっとも興味を引かれたのは、最後の短い講演録。これは神奈川県要約筆記協会で行われたものだ。「要約筆記」は、聴覚障害者のコミュニケーションを支援するものだが、「手話」ほどは知られていない。聴力が低下している難聴者や、人生の半ばで聴力を失った中途失聴者の場合、手話を学んでいるケースは少ないし、学んだとしてもいわば外国語であって、自由に使いこなさせるようになるには、相当の修練を要する。そこで聞こえるものが、人の話を聞き取ってこれを書いて伝えるという方法、要約筆記が生まれた。今から40年くらい前のことだ。
「愛の法則」の中でも、要約筆記が知られていないことを配慮してか、例示として残されているのは「手話」という言葉のみ。せっかく要約筆記協会で行われた講演だというのに、とても残念。
しかし、通訳というものが、いったい何をする行為なのか、という点についての米原さんの理解と指摘、そして解説は誠に深い。私はこれまで、通訳は、他人の話を聞いて理解し、理解した概念を、通訳者が他の言語(要約筆記の場合は書き言葉)で再現することだと理解してきた。そのこと自体は、米原さんの理解と主張と変わらないのだが、この本の中で米原さんは、そもそも人がコミュニケーションするとは、話し手が言語という記号に託したものを、聞き手が記号から再生する(再現する)ことだという。そのことをわかりやすく示すために、米原さんは、神様に言葉でお願いしたとき、願いは正確にかなえられるか、という設問をする。「美人にしてください」と言葉で願ったとき、神様が考えている「美人」が願っている人が望んでいる「美人」に一致している保証はない。
なんだ、コミュニケーションが、結局、話し手が言おうとしたなにやらもやもやした概念を言葉という記号に置き換えること、そして聞き手はこの記号から、話し手の意図したもの、言いたかったもやもやっとしたものを再現すること、からなっている、というなら、通訳者だけが特殊なことをしている訳じゃなかったんだ。
この記事へのトラックバックURL
この記事へのトラックバック
米原万里の「愛の法則」 集英社新書 米原 万里著 税込価格 : \693 (
米原万里の「愛の法則」 集英社新書【本の本質】at 2007年10月28日 15:27