2008年10月15日
全国要約筆記研究討論集会に向けて−その2
提言論文には図が2つ付いている。その図は、要するに社会の中で、聞こえない人への理解を拡げるという側面と要約筆記奉仕員を養成するという側面を連動させるのではなく、前者を拡大する方法を考える場合の道筋を示している。社会の中で、聞こえない人、聞こえにくい人への理解を拡げることができれば、その理解の輪の中で、要約筆記により他人の話を通訳する人も、聞こえない人への字幕を作る活動も、プラネタリウムの上演や芝居の情報保障をする取り組みも、広がり、育っていく筈だ。
そのためには、
要約筆記で通訳する人の養成=聞こえない人・聞こえにくい人の現状や困難さを理解する人
という等号(=)を、不等号(<)にしなければいけない。
この左側を通訳者として認定し、社会福祉事業として社会的な制度として機能させていく、という努力を一方におき、他方に、啓発の運動を置く。啓発の運動は、つまるところ聴覚障害者の社会参加促進という側面を持つから、これを自立支援法の地域生活支援事業の実施要綱における「要約筆記奉仕員養成事業」として整理していく、そういう方向性が望ましいと私は思う。
この辺の整理をしていくことが、提言論文を掲げ、要約筆記研究討論集会の第1分科会で取り上げようとしている意味だろうと思う。どんな討論集会になるのか。ちょっと楽しみではある。
そのためには、
要約筆記で通訳する人の養成=聞こえない人・聞こえにくい人の現状や困難さを理解する人
という等号(=)を、不等号(<)にしなければいけない。
この左側を通訳者として認定し、社会福祉事業として社会的な制度として機能させていく、という努力を一方におき、他方に、啓発の運動を置く。啓発の運動は、つまるところ聴覚障害者の社会参加促進という側面を持つから、これを自立支援法の地域生活支援事業の実施要綱における「要約筆記奉仕員養成事業」として整理していく、そういう方向性が望ましいと私は思う。
この辺の整理をしていくことが、提言論文を掲げ、要約筆記研究討論集会の第1分科会で取り上げようとしている意味だろうと思う。どんな討論集会になるのか。ちょっと楽しみではある。
2008年10月06日
研究討論集会に向けて
全要研ニュース10月号が配送されてきた。この中に、一年の休止を挟んで再開された全国要約筆記研究討論集会の募集要綱が同封されている。併せて、その第1分科会の提言論文が掲載されている。第1分科会に参加する人は、この提言論文に対する自分の意見を論文にして提出することになっている。
提言論文の主張のポイントは、中途失聴者・難聴者の現状や社会的な困難さを理解して自ら筆談で自分の意図を伝えようとする人の養成と、要約筆記という方法を用いて他人の話を聞こえない人に伝達しようとする人の養成とを分離しようと言うところにあるようだ。「分離」といっても、要約筆記者は当然、前者、つまり中途失聴者・難聴者の現状や社会的な困難さを理解することを含んでいる。ただ、これまでは、中途失聴者・難聴者に関係して健聴者に対して行なわれてきた養成というものは、基本的に要約筆記奉仕員の養成しかなかった。要約筆記奉仕員の養成以外の、中途失聴者・難聴者に対する理解と支援を求めるような講習会は、ごく限られた例外を除いて存在しない。特に公的な制度として位置づけられたものは、一つもない。
ということは、要約筆記奉仕員を養成する講座なりが、中途失聴者・難聴者に対する理解・啓発を進める講座であったということだ。つまり、
中途失聴者・難聴者に対する理解・啓発を求めること = 要約筆記奉仕員養成
という関係になっていた。ここをイコールではなく、
中途失聴者・難聴者に対する理解・啓発を求めること > 要約筆記奉仕員養成
にすべきではないか、と提言論文は、問題を提起している。
(以下、次回)
提言論文の主張のポイントは、中途失聴者・難聴者の現状や社会的な困難さを理解して自ら筆談で自分の意図を伝えようとする人の養成と、要約筆記という方法を用いて他人の話を聞こえない人に伝達しようとする人の養成とを分離しようと言うところにあるようだ。「分離」といっても、要約筆記者は当然、前者、つまり中途失聴者・難聴者の現状や社会的な困難さを理解することを含んでいる。ただ、これまでは、中途失聴者・難聴者に関係して健聴者に対して行なわれてきた養成というものは、基本的に要約筆記奉仕員の養成しかなかった。要約筆記奉仕員の養成以外の、中途失聴者・難聴者に対する理解と支援を求めるような講習会は、ごく限られた例外を除いて存在しない。特に公的な制度として位置づけられたものは、一つもない。
ということは、要約筆記奉仕員を養成する講座なりが、中途失聴者・難聴者に対する理解・啓発を進める講座であったということだ。つまり、
中途失聴者・難聴者に対する理解・啓発を求めること = 要約筆記奉仕員養成
という関係になっていた。ここをイコールではなく、
中途失聴者・難聴者に対する理解・啓発を求めること > 要約筆記奉仕員養成
にすべきではないか、と提言論文は、問題を提起している。
(以下、次回)
2008年10月06日
ブログの再開
長い間ブログを更新できなかった。結局、長いひとまとまりの文章を書こうとするからこうなってしまう。と言うわけで、ちょっと短く、適当に切り上げて書こうと思う。
手始めに、と言ってはなんだが、美術の話題から。
東京の上野、国立西洋美術館でハンマースホイ(1864-1916)の展覧会をやっている。あまり知られた人ではないが、見に行って驚いた。室内画が素晴らしい。変な言い方だが、どの室内画も色っぽいのだ。画家のまなざしが、自らの暮らしている空間を知り尽くして、まるで家屋の内臓を描いているように思える。こんな印象を絵画に対して持ったのは初めてだ。なんの変哲もない家屋、床、壁、窓、テーブル、ピアノ、壁に掛かった銅版画、それら一つひとつが、その中で生きる人を愛するように、描かれている。
あまり期待していなかったが、行って良かった。どんなものも、結局足をのばして行ってみないと分からない。
手始めに、と言ってはなんだが、美術の話題から。
東京の上野、国立西洋美術館でハンマースホイ(1864-1916)の展覧会をやっている。あまり知られた人ではないが、見に行って驚いた。室内画が素晴らしい。変な言い方だが、どの室内画も色っぽいのだ。画家のまなざしが、自らの暮らしている空間を知り尽くして、まるで家屋の内臓を描いているように思える。こんな印象を絵画に対して持ったのは初めてだ。なんの変哲もない家屋、床、壁、窓、テーブル、ピアノ、壁に掛かった銅版画、それら一つひとつが、その中で生きる人を愛するように、描かれている。
あまり期待していなかったが、行って良かった。どんなものも、結局足をのばして行ってみないと分からない。