2008年04月10日
田丸さんのコメントに答えて
田丸さんから、長いコメントを頂いたので、本文でお答えしようと思う。忙しさは相変わらずで、この回答も新幹線の中で作っている。推敲不足の点はご容赦願いたい。
さて、田丸さんのコメントは多岐に亘るが、まず奉仕員と要約筆記者について考えてみよう。議論する場合、
(1)あるべき姿(理想)
(2)現状の中でベストまたはベターな解
というものを区別しておきたい。この二つは、多くの場合一致しない。前者の立場は、後者の立場から、「現実を見ろ」という形で批判されることが多い。しかし、あるべき姿とか理想の形を押さえていない運動というものは、しばしば道を間違えると私は思う。理想を高く持つ活動だけが、理想に近づけるし、現実の中でも道を間違えない、と思っている。ただし、理想ばかりを追うと、なかなか現実の解決ができないということも事実だ。目の前で困っている人がいれば、何ができるかを考えることも必要だ。以前、サークルでの要約筆記者の派遣をやめた、ということをこのブログにも書いた。目の前に、情報保障がなくて困っている人がいるとき、「通訳者でなければ派遣には出せませんから」とサークルでの派遣を断わる、その結果、困っている人が情報保障を受けることができないままになる、ということは、確かに正しい対応ではない。登録要約筆記者の会ができ、そこが公的な派遣に乗らない派遣に対応するという仕組みができて初めて、サークル派遣はしないという原則が、正しい対応になるということは確かだ。しかし、だからといって、いつまでもサークル派遣をすることが正しい訳ではない。
あるべき姿と現状の中での望ましい解とを、きちんと意識して対応を考えたいと思う。
その観点からみれば、田丸さんが言っておられる「要約筆記奉仕員を認定制度に包み込む」というのは、現状でのベターな解にはなり得るだろうと思う。しかしそれはあくまで「現状でのベターな解」であって、あるべき姿ではないだろうと私は思う。それはなぜか。前にも書いたように、「奉仕員」というのは、身につけた技術でそれなりのサービスをする人だからだ。もし奉仕員に認定を課すのであれば、それはもはや奉仕員ではない。奉仕員は、本人のやる気、本人の意欲や心の持ち方を優先するのだと思う。そういう人がたくさん必要であることははっきりしている。「要約筆記者制度の確立を」というと、「要約筆記奉仕員」が不要だといっているように聞こえるらしいのだが、それは違う。要約筆記者制度が確立したとしても、要約筆記奉仕員の重要性はいささかも揺るがない。問題は、通訳行為をどうみるか、ということなのだ。他人のコミュニケーションを媒介する要約筆記者には、それなりの知識や技術、そして対人支援についての基本的能力が必要になる。
田丸さんがあげておられた日本語をとても愛し、すばらしい知識を持っておられる方を例にとれば、その方が、他人のコミュニケーションを媒介するという行為がきちんとできないのであれば、「要約筆記者」として通訳の現場に出ることは間違っている。しかし、その方が、要約筆記者に日本語の基礎を教えることはもちろん差し支えない。要約筆記サークルで、サークル活動をすることも何ら差し支えない。映画の字幕を作ることもあるかも知れない。しかし、他人のコミュニケーションを媒介するという場面に、公的に派遣されることは間違っている、ただそれだけのことなのだ。要約筆記者の派遣を受ける人は、要約筆記者の支援を受けて、何かをしようとしている、その行為を支援できないのであれば、公的な派遣に出てはいけない。どんなに中途失聴者難聴者に対する理解や思いやりの心があったとしても、コミュニケーション支援を必要としている人には、それだけでは役に立たないのだ。コミュニケーション支援を必要としてる人には、コミュニケーション支援を提供する、それが公的な要約筆記者派遣の制度、ということなのだ。
しかし、現状では、「要約筆記者」として公的に認定された人はほとんどいない。現状、存在するのは「要約筆記奉仕員」だけだ。従って、この要約筆記奉仕員から、何らかの方法で「要約筆記者」を認定し、自立支援法の下での要約筆記者派遣制度に乗せる、ということは、現状でのベターな解だろう。しかし、公的な派遣に出す以上、どんなに難聴者に対する思いやりの心があっても、他人のコミュニケーションを支援できない人は派遣してはいけない。それは最低限守らなければならない。なぜなら、要約筆記者の派遣を受ける人は、コミュニケーション支援を必要としているからだ。
田丸さんが言っておられる「要約筆記奉仕員を認定制度に包み込んでしまう」というのが、上記の意味、要約筆記奉仕員から認定を経て、当面、要約筆記者として認定し派遣制度に乗せる、という意味であれば、それは現状でのベターな解だ。ただし、認定された人は、「要約筆記者」であって、「要約筆記奉仕員」ではない。その一方で、本来の要約筆記者の養成が進められなければならない。それがあるべき姿だと私は思う。既にカリキュラムはある。テキストもある。テキストを使って教えるための指導者養成講習会も開かれている。そのカリキュラムに沿って実施を試みている地域もある。にも関わらず、全要研と全難聴がまとまって、この「要約筆記者」養成と派遣を実現しようとしていないから、要約筆記奉仕員から、取り敢えず可能な人を「要約筆記者」として認定するというベターな解もまともに実施できないでいる。
では、認定により「要約筆記者」とならなかった要約筆記奉仕員はもはや不要なのだろうか。私はそうは思っていない。奉仕員には奉仕員にしかできないことがある。この話をするとき、私はいつも、「親切」と「ボランティア」の違いを使って説明する。「親切」というのは、人として必要なことだ。困っている人がいれば、自分にできる範囲で助けようとする人間の心はすばらしいものだ。それは動物にはほとんど見られない人間だけが持ちうる優れたものだと思う。しかし、親切だけでは、迷惑になることがある。私自身の、もう30年くらい前の経験だが、ある時、道を歩いていたら、老人が重そうな車を押して坂を登っていた。私は思わず「運びますよ」といって、その車を持って坂の上まで押し上げてあげた。それは私の「親切」だった。しかし、その後で、一緒にいた年配の方から、「下出君、あれは老人が杖の代わりにしている老人車だから、坂の上まで押し上げてあげても、あのお年寄りはつかまるものがなくて、困ったかも知れないよ」と言われた。無知とは恐ろしいものだ。私はそれまで、お年寄りがつかまって歩く老人車というものの存在を知らなかったのだ。私のした親切は、そのお年寄りにとって、余計なお世話だった可能性は高い。いや、大迷惑だったに違いない。
親切は、知識がなければ、余計なお世話になる可能性を常に持っている。その知識を補うのが「奉仕員」としての講座だ。聴覚障害者に対する支援の気持ちを正しい親切として実現するために、最低限知らなければならないことを、私達は奉仕員の養成講座で学ぶことができる。学んだものをどこまで身につけて生かせるかは、個人個人によるのだが、それでも、正しく学べば、少なくとも余計なお世話や、間違った支援をすることは減るだろう。そうして養成された要約筆記奉仕員は、中途失聴者難聴者を、その生活の広汎な領域で支援することができる。理解することが、最初の支援だと言えるかも知れない。広汎な支援には、まだ公的に実施されていない様々な支援が含まれる。たとえば、映画の字幕制作やプラネタリウムの字幕付き上映、あるいは教育現場での支援、傾聴ボランティアというのもあるかも知れない。あるいは、中途失聴者難聴者運動を直接的に支援することも含まれるだろう。そうした様々な支援活動の中から、専門的な領域が取り出されれば、それは公的な制度に移されていく。すでに20年以上の歴史を持つ要約筆記奉仕員の活動の中から、他人のコミュニケーションを媒介する通訳行為が、専門性を持った領域として取り出され、「要約筆記者」として制度化されようとしている。それは、要約筆記奉仕員の豊かで長い歴史を持つ活動が生み出したものだ。「要約筆記者」の公的な派遣制度が始まっても、「要約筆記者」を生み出した「要約筆記奉仕員」が不要になるはずがないことは、ここからも理解される。豊かな奉仕員の活動があり、その海の中から、また別の専門性をもった領域が取り出されてくるはずだ。
現状でのベターな解として、現在の要約筆記奉仕員に対して何らかの認定試験を行ない、要約筆記者として認定する、というのは、全難聴が2005年の要約筆記事業で試みたことだ(報告書「要約筆記者認定への提言」参照)。そのことと、あるべき姿としての要約筆記者の養成の確立とは、どちらか一つだけということではない。当面、要約筆記奉仕員の中から、難聴者のコミュニケーション支援をできる人を認定して要約筆記者として公的な派遣制度にのせ、その一方で、要約筆記者の養成カリキュラムの公的な確認、自治体への通達などを実現していかなければならない。
それでは、田丸さんのもう一つのコメントから窺われる問題、108時間の要約筆記者養成が、地域で可能なのかどうか、という点はどうだろうか。この点は、また次回。
さて、田丸さんのコメントは多岐に亘るが、まず奉仕員と要約筆記者について考えてみよう。議論する場合、
(1)あるべき姿(理想)
(2)現状の中でベストまたはベターな解
というものを区別しておきたい。この二つは、多くの場合一致しない。前者の立場は、後者の立場から、「現実を見ろ」という形で批判されることが多い。しかし、あるべき姿とか理想の形を押さえていない運動というものは、しばしば道を間違えると私は思う。理想を高く持つ活動だけが、理想に近づけるし、現実の中でも道を間違えない、と思っている。ただし、理想ばかりを追うと、なかなか現実の解決ができないということも事実だ。目の前で困っている人がいれば、何ができるかを考えることも必要だ。以前、サークルでの要約筆記者の派遣をやめた、ということをこのブログにも書いた。目の前に、情報保障がなくて困っている人がいるとき、「通訳者でなければ派遣には出せませんから」とサークルでの派遣を断わる、その結果、困っている人が情報保障を受けることができないままになる、ということは、確かに正しい対応ではない。登録要約筆記者の会ができ、そこが公的な派遣に乗らない派遣に対応するという仕組みができて初めて、サークル派遣はしないという原則が、正しい対応になるということは確かだ。しかし、だからといって、いつまでもサークル派遣をすることが正しい訳ではない。
あるべき姿と現状の中での望ましい解とを、きちんと意識して対応を考えたいと思う。
その観点からみれば、田丸さんが言っておられる「要約筆記奉仕員を認定制度に包み込む」というのは、現状でのベターな解にはなり得るだろうと思う。しかしそれはあくまで「現状でのベターな解」であって、あるべき姿ではないだろうと私は思う。それはなぜか。前にも書いたように、「奉仕員」というのは、身につけた技術でそれなりのサービスをする人だからだ。もし奉仕員に認定を課すのであれば、それはもはや奉仕員ではない。奉仕員は、本人のやる気、本人の意欲や心の持ち方を優先するのだと思う。そういう人がたくさん必要であることははっきりしている。「要約筆記者制度の確立を」というと、「要約筆記奉仕員」が不要だといっているように聞こえるらしいのだが、それは違う。要約筆記者制度が確立したとしても、要約筆記奉仕員の重要性はいささかも揺るがない。問題は、通訳行為をどうみるか、ということなのだ。他人のコミュニケーションを媒介する要約筆記者には、それなりの知識や技術、そして対人支援についての基本的能力が必要になる。
田丸さんがあげておられた日本語をとても愛し、すばらしい知識を持っておられる方を例にとれば、その方が、他人のコミュニケーションを媒介するという行為がきちんとできないのであれば、「要約筆記者」として通訳の現場に出ることは間違っている。しかし、その方が、要約筆記者に日本語の基礎を教えることはもちろん差し支えない。要約筆記サークルで、サークル活動をすることも何ら差し支えない。映画の字幕を作ることもあるかも知れない。しかし、他人のコミュニケーションを媒介するという場面に、公的に派遣されることは間違っている、ただそれだけのことなのだ。要約筆記者の派遣を受ける人は、要約筆記者の支援を受けて、何かをしようとしている、その行為を支援できないのであれば、公的な派遣に出てはいけない。どんなに中途失聴者難聴者に対する理解や思いやりの心があったとしても、コミュニケーション支援を必要としている人には、それだけでは役に立たないのだ。コミュニケーション支援を必要としてる人には、コミュニケーション支援を提供する、それが公的な要約筆記者派遣の制度、ということなのだ。
しかし、現状では、「要約筆記者」として公的に認定された人はほとんどいない。現状、存在するのは「要約筆記奉仕員」だけだ。従って、この要約筆記奉仕員から、何らかの方法で「要約筆記者」を認定し、自立支援法の下での要約筆記者派遣制度に乗せる、ということは、現状でのベターな解だろう。しかし、公的な派遣に出す以上、どんなに難聴者に対する思いやりの心があっても、他人のコミュニケーションを支援できない人は派遣してはいけない。それは最低限守らなければならない。なぜなら、要約筆記者の派遣を受ける人は、コミュニケーション支援を必要としているからだ。
田丸さんが言っておられる「要約筆記奉仕員を認定制度に包み込んでしまう」というのが、上記の意味、要約筆記奉仕員から認定を経て、当面、要約筆記者として認定し派遣制度に乗せる、という意味であれば、それは現状でのベターな解だ。ただし、認定された人は、「要約筆記者」であって、「要約筆記奉仕員」ではない。その一方で、本来の要約筆記者の養成が進められなければならない。それがあるべき姿だと私は思う。既にカリキュラムはある。テキストもある。テキストを使って教えるための指導者養成講習会も開かれている。そのカリキュラムに沿って実施を試みている地域もある。にも関わらず、全要研と全難聴がまとまって、この「要約筆記者」養成と派遣を実現しようとしていないから、要約筆記奉仕員から、取り敢えず可能な人を「要約筆記者」として認定するというベターな解もまともに実施できないでいる。
では、認定により「要約筆記者」とならなかった要約筆記奉仕員はもはや不要なのだろうか。私はそうは思っていない。奉仕員には奉仕員にしかできないことがある。この話をするとき、私はいつも、「親切」と「ボランティア」の違いを使って説明する。「親切」というのは、人として必要なことだ。困っている人がいれば、自分にできる範囲で助けようとする人間の心はすばらしいものだ。それは動物にはほとんど見られない人間だけが持ちうる優れたものだと思う。しかし、親切だけでは、迷惑になることがある。私自身の、もう30年くらい前の経験だが、ある時、道を歩いていたら、老人が重そうな車を押して坂を登っていた。私は思わず「運びますよ」といって、その車を持って坂の上まで押し上げてあげた。それは私の「親切」だった。しかし、その後で、一緒にいた年配の方から、「下出君、あれは老人が杖の代わりにしている老人車だから、坂の上まで押し上げてあげても、あのお年寄りはつかまるものがなくて、困ったかも知れないよ」と言われた。無知とは恐ろしいものだ。私はそれまで、お年寄りがつかまって歩く老人車というものの存在を知らなかったのだ。私のした親切は、そのお年寄りにとって、余計なお世話だった可能性は高い。いや、大迷惑だったに違いない。
親切は、知識がなければ、余計なお世話になる可能性を常に持っている。その知識を補うのが「奉仕員」としての講座だ。聴覚障害者に対する支援の気持ちを正しい親切として実現するために、最低限知らなければならないことを、私達は奉仕員の養成講座で学ぶことができる。学んだものをどこまで身につけて生かせるかは、個人個人によるのだが、それでも、正しく学べば、少なくとも余計なお世話や、間違った支援をすることは減るだろう。そうして養成された要約筆記奉仕員は、中途失聴者難聴者を、その生活の広汎な領域で支援することができる。理解することが、最初の支援だと言えるかも知れない。広汎な支援には、まだ公的に実施されていない様々な支援が含まれる。たとえば、映画の字幕制作やプラネタリウムの字幕付き上映、あるいは教育現場での支援、傾聴ボランティアというのもあるかも知れない。あるいは、中途失聴者難聴者運動を直接的に支援することも含まれるだろう。そうした様々な支援活動の中から、専門的な領域が取り出されれば、それは公的な制度に移されていく。すでに20年以上の歴史を持つ要約筆記奉仕員の活動の中から、他人のコミュニケーションを媒介する通訳行為が、専門性を持った領域として取り出され、「要約筆記者」として制度化されようとしている。それは、要約筆記奉仕員の豊かで長い歴史を持つ活動が生み出したものだ。「要約筆記者」の公的な派遣制度が始まっても、「要約筆記者」を生み出した「要約筆記奉仕員」が不要になるはずがないことは、ここからも理解される。豊かな奉仕員の活動があり、その海の中から、また別の専門性をもった領域が取り出されてくるはずだ。
現状でのベターな解として、現在の要約筆記奉仕員に対して何らかの認定試験を行ない、要約筆記者として認定する、というのは、全難聴が2005年の要約筆記事業で試みたことだ(報告書「要約筆記者認定への提言」参照)。そのことと、あるべき姿としての要約筆記者の養成の確立とは、どちらか一つだけということではない。当面、要約筆記奉仕員の中から、難聴者のコミュニケーション支援をできる人を認定して要約筆記者として公的な派遣制度にのせ、その一方で、要約筆記者の養成カリキュラムの公的な確認、自治体への通達などを実現していかなければならない。
それでは、田丸さんのもう一つのコメントから窺われる問題、108時間の要約筆記者養成が、地域で可能なのかどうか、という点はどうだろうか。この点は、また次回。
2008年04月04日
要約筆記という支援−その2
一つあたりの投稿が長くなってしまうので、二つに分けた。しかし、通して読んでいただきたい(ならば、分ける意味はないか)。
さて、全要研ニュース4月号の巻頭言に戻るのだが、不平等な関係がそこには存在する、という点の認識については、小西さんと私にはあまり大きな差はないかもしれない。しかし、私は、だからこそ、奉仕員制度では追いつかない、と考えている点で、おそらく立場を異にしている。両者の間に難しい関係があるのだ、と気づく、それはいい。そのことを私達は忘れずに活動したい、というのも良い。しかし、では、それはどのように担保されているのか、という点で考え方が違うのではないか。
聴覚障害者がおかれてきた環境、生育歴、聞こえの程度の個人差、そういったものをきちんと理解して支援する、というために、現在の奉仕員制度では追いつかない。たとえば、現在の要約筆記奉仕員養成カリキュラムで、小西さんが問題提起しているような関係性をきちんと教えているだろうか。あるいはそこに小西さんが気づいた課題が横たわっていることが、テキストで指摘されているだろうか。現在の奉仕員カリキュラム・テキストでは、そこまで踏み込んではいない。「対人支援」という言葉も、そこにはない。
ボランティア活動を誠実に長く続ければ、そして障害者との間に平等の関係を作ろうと努めれば、両者の間に、社会が、歴史が、要するに私達がこれまで築いてきた不平等な関係が見えてくる。そのことに気づかずに活動すれば、危うい、ということも分かってくる。では、どのように考え、判断し、行動すれば良いのか、そのことを学ぼうとしても学ぶ場がない、個人的経験の蓄積によって学ぶしかない、というのが、現在の要約筆記奉仕員ではないか。それでは、小西さんが考える危うさは、いつまでたっても構造的に放置されたままになる。
全難聴が提案した「要約筆記者養成カリキュラム」が万能の妙薬だとは思わない。そこには不足しているものも確かに存在する。しかし、よりましなものであることは明確だと私は考えている。少なくとも日本という国における社会福祉制度のあり方、長い歴史をかけて作られてきた障害者福祉の考え方の変遷と現在のあり方、障害者支援における支援者と支援を受ける人の関係、そういった事項に対して、学ぼうとし、学ぶに耐えるだけのものを用意した、という意味で、奉仕員制度では対応できなかったものに対応しようとしている。
なぜこの成果を、早く社会に還元しないのか。還元するように働きかけることをしないのか。全要研の中にいて、全要研の理事をしているのだから、それは私自身の力不足ということなのだが、歯がゆい思いは募るばかりだ。ボランティア精神は尊い。それはおそらくすべての始まりだろうと思う。他人のために自発的に何かを始めること、その精神なしに、福祉というものは実体を持たないだろう。そんなことは分かっている。だが、ボランティア精神だけでは不足することも確かなのだ。ボランティア精神にあふれた人の一言が、人を励ますことがあるが、しかし確かに人を傷つけることもあるのだ。それはボランティアの責任としては半分ではないか。ボランティア精神にあふれた人に正しい知識と正しい対応方法を学ぶ場を用意した上でなら、あとはボランティア自身の責任かもしれない。しかし、そういうシステムを作っていないなら、残り半分の責任は、そのシステムを作らないでいる側にあるはずだ。
これまで確かに存在した不平等な関係に気づいたなら、それを個人が気をつけること、にとどめないで、それを解消する仕組みの構築に向かわなければならない。全要研は、それができる組織であるはずだ。この2年間、要約筆記者制度の創設を推し進められなかった理事・理事長の責任は重い。
さて、全要研ニュース4月号の巻頭言に戻るのだが、不平等な関係がそこには存在する、という点の認識については、小西さんと私にはあまり大きな差はないかもしれない。しかし、私は、だからこそ、奉仕員制度では追いつかない、と考えている点で、おそらく立場を異にしている。両者の間に難しい関係があるのだ、と気づく、それはいい。そのことを私達は忘れずに活動したい、というのも良い。しかし、では、それはどのように担保されているのか、という点で考え方が違うのではないか。
聴覚障害者がおかれてきた環境、生育歴、聞こえの程度の個人差、そういったものをきちんと理解して支援する、というために、現在の奉仕員制度では追いつかない。たとえば、現在の要約筆記奉仕員養成カリキュラムで、小西さんが問題提起しているような関係性をきちんと教えているだろうか。あるいはそこに小西さんが気づいた課題が横たわっていることが、テキストで指摘されているだろうか。現在の奉仕員カリキュラム・テキストでは、そこまで踏み込んではいない。「対人支援」という言葉も、そこにはない。
ボランティア活動を誠実に長く続ければ、そして障害者との間に平等の関係を作ろうと努めれば、両者の間に、社会が、歴史が、要するに私達がこれまで築いてきた不平等な関係が見えてくる。そのことに気づかずに活動すれば、危うい、ということも分かってくる。では、どのように考え、判断し、行動すれば良いのか、そのことを学ぼうとしても学ぶ場がない、個人的経験の蓄積によって学ぶしかない、というのが、現在の要約筆記奉仕員ではないか。それでは、小西さんが考える危うさは、いつまでたっても構造的に放置されたままになる。
全難聴が提案した「要約筆記者養成カリキュラム」が万能の妙薬だとは思わない。そこには不足しているものも確かに存在する。しかし、よりましなものであることは明確だと私は考えている。少なくとも日本という国における社会福祉制度のあり方、長い歴史をかけて作られてきた障害者福祉の考え方の変遷と現在のあり方、障害者支援における支援者と支援を受ける人の関係、そういった事項に対して、学ぼうとし、学ぶに耐えるだけのものを用意した、という意味で、奉仕員制度では対応できなかったものに対応しようとしている。
なぜこの成果を、早く社会に還元しないのか。還元するように働きかけることをしないのか。全要研の中にいて、全要研の理事をしているのだから、それは私自身の力不足ということなのだが、歯がゆい思いは募るばかりだ。ボランティア精神は尊い。それはおそらくすべての始まりだろうと思う。他人のために自発的に何かを始めること、その精神なしに、福祉というものは実体を持たないだろう。そんなことは分かっている。だが、ボランティア精神だけでは不足することも確かなのだ。ボランティア精神にあふれた人の一言が、人を励ますことがあるが、しかし確かに人を傷つけることもあるのだ。それはボランティアの責任としては半分ではないか。ボランティア精神にあふれた人に正しい知識と正しい対応方法を学ぶ場を用意した上でなら、あとはボランティア自身の責任かもしれない。しかし、そういうシステムを作っていないなら、残り半分の責任は、そのシステムを作らないでいる側にあるはずだ。
これまで確かに存在した不平等な関係に気づいたなら、それを個人が気をつけること、にとどめないで、それを解消する仕組みの構築に向かわなければならない。全要研は、それができる組織であるはずだ。この2年間、要約筆記者制度の創設を推し進められなかった理事・理事長の責任は重い。
2008年04月04日
要約筆記という支援
全要研ニュース4月号が届いた。その巻頭言に小西理事長が、要約筆記者と中途失聴・難聴者との関係について書いておられる。書いていることの前半、要するに支援をするものと支援を受ける者との関係については、同意できることが多い。両者の間の平等ということの意味、議論になったとき、最後に難聴者が黙ってしまうことの意味に気づいておられるのは、さすが長い経験をもっておられるからだろう。支援する者と支援される者との間の平等の関係は、障害者福祉に関わる者が、いつかは必ず自問する問いなのだと思う。そこには様々な側面があるが、両者の心理的な立場の問題はさておき、情報格差ということについて考えてみたい。
要約筆記者は聞こえる。聞こえるために、聞こえない人よりたくさんの情報を持っていることが多い。議論になったとき、情報をたくさん持っている方が、一般には有利だ。より正しい結論にたどり着けることも多い。「どうしてそう言えるの?」と尋ねられて、「実は○○だと聞いたよ」と言われれば、その「○○だ」とう情報から隔てられていた者は黙る他はない。聞こえる者と聞こえない者が議論するときに、この情報格差を解消してから話をしないと、本当の意味での平等な議論はできない。それは障害者同士でも問題になる。聞こえの程度にかなりの差がある難聴者が議論しているとき、障害者同士だから平等な立場で議論になっているとは言えない姿を何度か見てきた。より聞こえる側が、より聞こえない側よりたくさんの情報を持ち、聞こえない側を論破していく。
もちろん聞こえる者同士の議論でもそれは起きる。より多くの情報をつかんでいる者が、有利な立場で議論するということはある。しかし、聞こえない故の情報の少なさを補うための努力を、どこまで聴覚障害者本人に求めることができるのだろうか。いや、聞こえないために情報が少ない、という事態を前にして、私達にできることはなんだろうか。「きちんと情報を保障する」、まずここから始める他はない。議論の場で、より聞こえない人に、より聞こえる人と格差のない情報を伝達することの意味は、平等な環境を作る、という点で限りなく重要だと言える。ではその場の情報が保障されれば、それで問題は大部分解消するだろうか。
たとえば、完全な情報保障が仮に実現したとして、それで両者は平等になるだろうか。実はそんなに簡単ではない。その情報保障がなされている場にたどり着くまでに、長い間、情報保障のないまま生活してきたのだ。小学校で、中学校で、さらには高等教育の場で、情報保障はあっただろうか。大部分の聴覚障害者、特に難聴者にとって、答えは「ノー」だろう。テレビの字幕はついていたか。科学館の展示に字幕はあったか。そういう環境で育ってきたとしたら、相当の本人の努力があったとしても、情報の格差を埋めきれるかどうか。
私達要約筆記者は「その場の聞こえを保障する仕事」をする、とされている。その場の通訳ができれば、書き取ったノートテイク用紙は利用者に渡す必要はないとされる。そのこと自体は間違っていない。そうなることを私達は目指している。だが、長い間聞こえない状況におかれてきた人たちにとって、その場の情報保障が、今現在なされている、というだけでは、本当の意味で平等だとは言えない、と私は考える。長い間の情報格差による不平等の蓄積を解消するためであれば、ノートテイクの用紙を渡すことだって意味がある、と考える。最初から記録として使うことを目的として要約筆記を使うのは論外だが、一人の難聴者の人生の側に立てば、書き取られたノートテイクの用紙を渡すことが、本当の意味の支援であり、平等を実現することになる、という場面がある、と考えている。
支援する側と支援される側、より聞こえる側とより聞こえない側、そうした不平等な関係が、構造的に組み込まれている場合、適切な対応を導くことは、原則論だけでは簡単にはいかない。(この稿続く)
要約筆記者は聞こえる。聞こえるために、聞こえない人よりたくさんの情報を持っていることが多い。議論になったとき、情報をたくさん持っている方が、一般には有利だ。より正しい結論にたどり着けることも多い。「どうしてそう言えるの?」と尋ねられて、「実は○○だと聞いたよ」と言われれば、その「○○だ」とう情報から隔てられていた者は黙る他はない。聞こえる者と聞こえない者が議論するときに、この情報格差を解消してから話をしないと、本当の意味での平等な議論はできない。それは障害者同士でも問題になる。聞こえの程度にかなりの差がある難聴者が議論しているとき、障害者同士だから平等な立場で議論になっているとは言えない姿を何度か見てきた。より聞こえる側が、より聞こえない側よりたくさんの情報を持ち、聞こえない側を論破していく。
もちろん聞こえる者同士の議論でもそれは起きる。より多くの情報をつかんでいる者が、有利な立場で議論するということはある。しかし、聞こえない故の情報の少なさを補うための努力を、どこまで聴覚障害者本人に求めることができるのだろうか。いや、聞こえないために情報が少ない、という事態を前にして、私達にできることはなんだろうか。「きちんと情報を保障する」、まずここから始める他はない。議論の場で、より聞こえない人に、より聞こえる人と格差のない情報を伝達することの意味は、平等な環境を作る、という点で限りなく重要だと言える。ではその場の情報が保障されれば、それで問題は大部分解消するだろうか。
たとえば、完全な情報保障が仮に実現したとして、それで両者は平等になるだろうか。実はそんなに簡単ではない。その情報保障がなされている場にたどり着くまでに、長い間、情報保障のないまま生活してきたのだ。小学校で、中学校で、さらには高等教育の場で、情報保障はあっただろうか。大部分の聴覚障害者、特に難聴者にとって、答えは「ノー」だろう。テレビの字幕はついていたか。科学館の展示に字幕はあったか。そういう環境で育ってきたとしたら、相当の本人の努力があったとしても、情報の格差を埋めきれるかどうか。
私達要約筆記者は「その場の聞こえを保障する仕事」をする、とされている。その場の通訳ができれば、書き取ったノートテイク用紙は利用者に渡す必要はないとされる。そのこと自体は間違っていない。そうなることを私達は目指している。だが、長い間聞こえない状況におかれてきた人たちにとって、その場の情報保障が、今現在なされている、というだけでは、本当の意味で平等だとは言えない、と私は考える。長い間の情報格差による不平等の蓄積を解消するためであれば、ノートテイクの用紙を渡すことだって意味がある、と考える。最初から記録として使うことを目的として要約筆記を使うのは論外だが、一人の難聴者の人生の側に立てば、書き取られたノートテイクの用紙を渡すことが、本当の意味の支援であり、平等を実現することになる、という場面がある、と考えている。
支援する側と支援される側、より聞こえる側とより聞こえない側、そうした不平等な関係が、構造的に組み込まれている場合、適切な対応を導くことは、原則論だけでは簡単にはいかない。(この稿続く)