2008年04月10日
田丸さんのコメントに答えて
田丸さんから、長いコメントを頂いたので、本文でお答えしようと思う。忙しさは相変わらずで、この回答も新幹線の中で作っている。推敲不足の点はご容赦願いたい。
さて、田丸さんのコメントは多岐に亘るが、まず奉仕員と要約筆記者について考えてみよう。議論する場合、
(1)あるべき姿(理想)
(2)現状の中でベストまたはベターな解
というものを区別しておきたい。この二つは、多くの場合一致しない。前者の立場は、後者の立場から、「現実を見ろ」という形で批判されることが多い。しかし、あるべき姿とか理想の形を押さえていない運動というものは、しばしば道を間違えると私は思う。理想を高く持つ活動だけが、理想に近づけるし、現実の中でも道を間違えない、と思っている。ただし、理想ばかりを追うと、なかなか現実の解決ができないということも事実だ。目の前で困っている人がいれば、何ができるかを考えることも必要だ。以前、サークルでの要約筆記者の派遣をやめた、ということをこのブログにも書いた。目の前に、情報保障がなくて困っている人がいるとき、「通訳者でなければ派遣には出せませんから」とサークルでの派遣を断わる、その結果、困っている人が情報保障を受けることができないままになる、ということは、確かに正しい対応ではない。登録要約筆記者の会ができ、そこが公的な派遣に乗らない派遣に対応するという仕組みができて初めて、サークル派遣はしないという原則が、正しい対応になるということは確かだ。しかし、だからといって、いつまでもサークル派遣をすることが正しい訳ではない。
あるべき姿と現状の中での望ましい解とを、きちんと意識して対応を考えたいと思う。
その観点からみれば、田丸さんが言っておられる「要約筆記奉仕員を認定制度に包み込む」というのは、現状でのベターな解にはなり得るだろうと思う。しかしそれはあくまで「現状でのベターな解」であって、あるべき姿ではないだろうと私は思う。それはなぜか。前にも書いたように、「奉仕員」というのは、身につけた技術でそれなりのサービスをする人だからだ。もし奉仕員に認定を課すのであれば、それはもはや奉仕員ではない。奉仕員は、本人のやる気、本人の意欲や心の持ち方を優先するのだと思う。そういう人がたくさん必要であることははっきりしている。「要約筆記者制度の確立を」というと、「要約筆記奉仕員」が不要だといっているように聞こえるらしいのだが、それは違う。要約筆記者制度が確立したとしても、要約筆記奉仕員の重要性はいささかも揺るがない。問題は、通訳行為をどうみるか、ということなのだ。他人のコミュニケーションを媒介する要約筆記者には、それなりの知識や技術、そして対人支援についての基本的能力が必要になる。
田丸さんがあげておられた日本語をとても愛し、すばらしい知識を持っておられる方を例にとれば、その方が、他人のコミュニケーションを媒介するという行為がきちんとできないのであれば、「要約筆記者」として通訳の現場に出ることは間違っている。しかし、その方が、要約筆記者に日本語の基礎を教えることはもちろん差し支えない。要約筆記サークルで、サークル活動をすることも何ら差し支えない。映画の字幕を作ることもあるかも知れない。しかし、他人のコミュニケーションを媒介するという場面に、公的に派遣されることは間違っている、ただそれだけのことなのだ。要約筆記者の派遣を受ける人は、要約筆記者の支援を受けて、何かをしようとしている、その行為を支援できないのであれば、公的な派遣に出てはいけない。どんなに中途失聴者難聴者に対する理解や思いやりの心があったとしても、コミュニケーション支援を必要としている人には、それだけでは役に立たないのだ。コミュニケーション支援を必要としてる人には、コミュニケーション支援を提供する、それが公的な要約筆記者派遣の制度、ということなのだ。
しかし、現状では、「要約筆記者」として公的に認定された人はほとんどいない。現状、存在するのは「要約筆記奉仕員」だけだ。従って、この要約筆記奉仕員から、何らかの方法で「要約筆記者」を認定し、自立支援法の下での要約筆記者派遣制度に乗せる、ということは、現状でのベターな解だろう。しかし、公的な派遣に出す以上、どんなに難聴者に対する思いやりの心があっても、他人のコミュニケーションを支援できない人は派遣してはいけない。それは最低限守らなければならない。なぜなら、要約筆記者の派遣を受ける人は、コミュニケーション支援を必要としているからだ。
田丸さんが言っておられる「要約筆記奉仕員を認定制度に包み込んでしまう」というのが、上記の意味、要約筆記奉仕員から認定を経て、当面、要約筆記者として認定し派遣制度に乗せる、という意味であれば、それは現状でのベターな解だ。ただし、認定された人は、「要約筆記者」であって、「要約筆記奉仕員」ではない。その一方で、本来の要約筆記者の養成が進められなければならない。それがあるべき姿だと私は思う。既にカリキュラムはある。テキストもある。テキストを使って教えるための指導者養成講習会も開かれている。そのカリキュラムに沿って実施を試みている地域もある。にも関わらず、全要研と全難聴がまとまって、この「要約筆記者」養成と派遣を実現しようとしていないから、要約筆記奉仕員から、取り敢えず可能な人を「要約筆記者」として認定するというベターな解もまともに実施できないでいる。
では、認定により「要約筆記者」とならなかった要約筆記奉仕員はもはや不要なのだろうか。私はそうは思っていない。奉仕員には奉仕員にしかできないことがある。この話をするとき、私はいつも、「親切」と「ボランティア」の違いを使って説明する。「親切」というのは、人として必要なことだ。困っている人がいれば、自分にできる範囲で助けようとする人間の心はすばらしいものだ。それは動物にはほとんど見られない人間だけが持ちうる優れたものだと思う。しかし、親切だけでは、迷惑になることがある。私自身の、もう30年くらい前の経験だが、ある時、道を歩いていたら、老人が重そうな車を押して坂を登っていた。私は思わず「運びますよ」といって、その車を持って坂の上まで押し上げてあげた。それは私の「親切」だった。しかし、その後で、一緒にいた年配の方から、「下出君、あれは老人が杖の代わりにしている老人車だから、坂の上まで押し上げてあげても、あのお年寄りはつかまるものがなくて、困ったかも知れないよ」と言われた。無知とは恐ろしいものだ。私はそれまで、お年寄りがつかまって歩く老人車というものの存在を知らなかったのだ。私のした親切は、そのお年寄りにとって、余計なお世話だった可能性は高い。いや、大迷惑だったに違いない。
親切は、知識がなければ、余計なお世話になる可能性を常に持っている。その知識を補うのが「奉仕員」としての講座だ。聴覚障害者に対する支援の気持ちを正しい親切として実現するために、最低限知らなければならないことを、私達は奉仕員の養成講座で学ぶことができる。学んだものをどこまで身につけて生かせるかは、個人個人によるのだが、それでも、正しく学べば、少なくとも余計なお世話や、間違った支援をすることは減るだろう。そうして養成された要約筆記奉仕員は、中途失聴者難聴者を、その生活の広汎な領域で支援することができる。理解することが、最初の支援だと言えるかも知れない。広汎な支援には、まだ公的に実施されていない様々な支援が含まれる。たとえば、映画の字幕制作やプラネタリウムの字幕付き上映、あるいは教育現場での支援、傾聴ボランティアというのもあるかも知れない。あるいは、中途失聴者難聴者運動を直接的に支援することも含まれるだろう。そうした様々な支援活動の中から、専門的な領域が取り出されれば、それは公的な制度に移されていく。すでに20年以上の歴史を持つ要約筆記奉仕員の活動の中から、他人のコミュニケーションを媒介する通訳行為が、専門性を持った領域として取り出され、「要約筆記者」として制度化されようとしている。それは、要約筆記奉仕員の豊かで長い歴史を持つ活動が生み出したものだ。「要約筆記者」の公的な派遣制度が始まっても、「要約筆記者」を生み出した「要約筆記奉仕員」が不要になるはずがないことは、ここからも理解される。豊かな奉仕員の活動があり、その海の中から、また別の専門性をもった領域が取り出されてくるはずだ。
現状でのベターな解として、現在の要約筆記奉仕員に対して何らかの認定試験を行ない、要約筆記者として認定する、というのは、全難聴が2005年の要約筆記事業で試みたことだ(報告書「要約筆記者認定への提言」参照)。そのことと、あるべき姿としての要約筆記者の養成の確立とは、どちらか一つだけということではない。当面、要約筆記奉仕員の中から、難聴者のコミュニケーション支援をできる人を認定して要約筆記者として公的な派遣制度にのせ、その一方で、要約筆記者の養成カリキュラムの公的な確認、自治体への通達などを実現していかなければならない。
それでは、田丸さんのもう一つのコメントから窺われる問題、108時間の要約筆記者養成が、地域で可能なのかどうか、という点はどうだろうか。この点は、また次回。
さて、田丸さんのコメントは多岐に亘るが、まず奉仕員と要約筆記者について考えてみよう。議論する場合、
(1)あるべき姿(理想)
(2)現状の中でベストまたはベターな解
というものを区別しておきたい。この二つは、多くの場合一致しない。前者の立場は、後者の立場から、「現実を見ろ」という形で批判されることが多い。しかし、あるべき姿とか理想の形を押さえていない運動というものは、しばしば道を間違えると私は思う。理想を高く持つ活動だけが、理想に近づけるし、現実の中でも道を間違えない、と思っている。ただし、理想ばかりを追うと、なかなか現実の解決ができないということも事実だ。目の前で困っている人がいれば、何ができるかを考えることも必要だ。以前、サークルでの要約筆記者の派遣をやめた、ということをこのブログにも書いた。目の前に、情報保障がなくて困っている人がいるとき、「通訳者でなければ派遣には出せませんから」とサークルでの派遣を断わる、その結果、困っている人が情報保障を受けることができないままになる、ということは、確かに正しい対応ではない。登録要約筆記者の会ができ、そこが公的な派遣に乗らない派遣に対応するという仕組みができて初めて、サークル派遣はしないという原則が、正しい対応になるということは確かだ。しかし、だからといって、いつまでもサークル派遣をすることが正しい訳ではない。
あるべき姿と現状の中での望ましい解とを、きちんと意識して対応を考えたいと思う。
その観点からみれば、田丸さんが言っておられる「要約筆記奉仕員を認定制度に包み込む」というのは、現状でのベターな解にはなり得るだろうと思う。しかしそれはあくまで「現状でのベターな解」であって、あるべき姿ではないだろうと私は思う。それはなぜか。前にも書いたように、「奉仕員」というのは、身につけた技術でそれなりのサービスをする人だからだ。もし奉仕員に認定を課すのであれば、それはもはや奉仕員ではない。奉仕員は、本人のやる気、本人の意欲や心の持ち方を優先するのだと思う。そういう人がたくさん必要であることははっきりしている。「要約筆記者制度の確立を」というと、「要約筆記奉仕員」が不要だといっているように聞こえるらしいのだが、それは違う。要約筆記者制度が確立したとしても、要約筆記奉仕員の重要性はいささかも揺るがない。問題は、通訳行為をどうみるか、ということなのだ。他人のコミュニケーションを媒介する要約筆記者には、それなりの知識や技術、そして対人支援についての基本的能力が必要になる。
田丸さんがあげておられた日本語をとても愛し、すばらしい知識を持っておられる方を例にとれば、その方が、他人のコミュニケーションを媒介するという行為がきちんとできないのであれば、「要約筆記者」として通訳の現場に出ることは間違っている。しかし、その方が、要約筆記者に日本語の基礎を教えることはもちろん差し支えない。要約筆記サークルで、サークル活動をすることも何ら差し支えない。映画の字幕を作ることもあるかも知れない。しかし、他人のコミュニケーションを媒介するという場面に、公的に派遣されることは間違っている、ただそれだけのことなのだ。要約筆記者の派遣を受ける人は、要約筆記者の支援を受けて、何かをしようとしている、その行為を支援できないのであれば、公的な派遣に出てはいけない。どんなに中途失聴者難聴者に対する理解や思いやりの心があったとしても、コミュニケーション支援を必要としている人には、それだけでは役に立たないのだ。コミュニケーション支援を必要としてる人には、コミュニケーション支援を提供する、それが公的な要約筆記者派遣の制度、ということなのだ。
しかし、現状では、「要約筆記者」として公的に認定された人はほとんどいない。現状、存在するのは「要約筆記奉仕員」だけだ。従って、この要約筆記奉仕員から、何らかの方法で「要約筆記者」を認定し、自立支援法の下での要約筆記者派遣制度に乗せる、ということは、現状でのベターな解だろう。しかし、公的な派遣に出す以上、どんなに難聴者に対する思いやりの心があっても、他人のコミュニケーションを支援できない人は派遣してはいけない。それは最低限守らなければならない。なぜなら、要約筆記者の派遣を受ける人は、コミュニケーション支援を必要としているからだ。
田丸さんが言っておられる「要約筆記奉仕員を認定制度に包み込んでしまう」というのが、上記の意味、要約筆記奉仕員から認定を経て、当面、要約筆記者として認定し派遣制度に乗せる、という意味であれば、それは現状でのベターな解だ。ただし、認定された人は、「要約筆記者」であって、「要約筆記奉仕員」ではない。その一方で、本来の要約筆記者の養成が進められなければならない。それがあるべき姿だと私は思う。既にカリキュラムはある。テキストもある。テキストを使って教えるための指導者養成講習会も開かれている。そのカリキュラムに沿って実施を試みている地域もある。にも関わらず、全要研と全難聴がまとまって、この「要約筆記者」養成と派遣を実現しようとしていないから、要約筆記奉仕員から、取り敢えず可能な人を「要約筆記者」として認定するというベターな解もまともに実施できないでいる。
では、認定により「要約筆記者」とならなかった要約筆記奉仕員はもはや不要なのだろうか。私はそうは思っていない。奉仕員には奉仕員にしかできないことがある。この話をするとき、私はいつも、「親切」と「ボランティア」の違いを使って説明する。「親切」というのは、人として必要なことだ。困っている人がいれば、自分にできる範囲で助けようとする人間の心はすばらしいものだ。それは動物にはほとんど見られない人間だけが持ちうる優れたものだと思う。しかし、親切だけでは、迷惑になることがある。私自身の、もう30年くらい前の経験だが、ある時、道を歩いていたら、老人が重そうな車を押して坂を登っていた。私は思わず「運びますよ」といって、その車を持って坂の上まで押し上げてあげた。それは私の「親切」だった。しかし、その後で、一緒にいた年配の方から、「下出君、あれは老人が杖の代わりにしている老人車だから、坂の上まで押し上げてあげても、あのお年寄りはつかまるものがなくて、困ったかも知れないよ」と言われた。無知とは恐ろしいものだ。私はそれまで、お年寄りがつかまって歩く老人車というものの存在を知らなかったのだ。私のした親切は、そのお年寄りにとって、余計なお世話だった可能性は高い。いや、大迷惑だったに違いない。
親切は、知識がなければ、余計なお世話になる可能性を常に持っている。その知識を補うのが「奉仕員」としての講座だ。聴覚障害者に対する支援の気持ちを正しい親切として実現するために、最低限知らなければならないことを、私達は奉仕員の養成講座で学ぶことができる。学んだものをどこまで身につけて生かせるかは、個人個人によるのだが、それでも、正しく学べば、少なくとも余計なお世話や、間違った支援をすることは減るだろう。そうして養成された要約筆記奉仕員は、中途失聴者難聴者を、その生活の広汎な領域で支援することができる。理解することが、最初の支援だと言えるかも知れない。広汎な支援には、まだ公的に実施されていない様々な支援が含まれる。たとえば、映画の字幕制作やプラネタリウムの字幕付き上映、あるいは教育現場での支援、傾聴ボランティアというのもあるかも知れない。あるいは、中途失聴者難聴者運動を直接的に支援することも含まれるだろう。そうした様々な支援活動の中から、専門的な領域が取り出されれば、それは公的な制度に移されていく。すでに20年以上の歴史を持つ要約筆記奉仕員の活動の中から、他人のコミュニケーションを媒介する通訳行為が、専門性を持った領域として取り出され、「要約筆記者」として制度化されようとしている。それは、要約筆記奉仕員の豊かで長い歴史を持つ活動が生み出したものだ。「要約筆記者」の公的な派遣制度が始まっても、「要約筆記者」を生み出した「要約筆記奉仕員」が不要になるはずがないことは、ここからも理解される。豊かな奉仕員の活動があり、その海の中から、また別の専門性をもった領域が取り出されてくるはずだ。
現状でのベターな解として、現在の要約筆記奉仕員に対して何らかの認定試験を行ない、要約筆記者として認定する、というのは、全難聴が2005年の要約筆記事業で試みたことだ(報告書「要約筆記者認定への提言」参照)。そのことと、あるべき姿としての要約筆記者の養成の確立とは、どちらか一つだけということではない。当面、要約筆記奉仕員の中から、難聴者のコミュニケーション支援をできる人を認定して要約筆記者として公的な派遣制度にのせ、その一方で、要約筆記者の養成カリキュラムの公的な確認、自治体への通達などを実現していかなければならない。
それでは、田丸さんのもう一つのコメントから窺われる問題、108時間の要約筆記者養成が、地域で可能なのかどうか、という点はどうだろうか。この点は、また次回。