2008年04月04日

要約筆記という支援−その2

 一つあたりの投稿が長くなってしまうので、二つに分けた。しかし、通して読んでいただきたい(ならば、分ける意味はないか)。




 さて、全要研ニュース4月号の巻頭言に戻るのだが、不平等な関係がそこには存在する、という点の認識については、小西さんと私にはあまり大きな差はないかもしれない。しかし、私は、だからこそ、奉仕員制度では追いつかない、と考えている点で、おそらく立場を異にしている。両者の間に難しい関係があるのだ、と気づく、それはいい。そのことを私達は忘れずに活動したい、というのも良い。しかし、では、それはどのように担保されているのか、という点で考え方が違うのではないか。
 聴覚障害者がおかれてきた環境、生育歴、聞こえの程度の個人差、そういったものをきちんと理解して支援する、というために、現在の奉仕員制度では追いつかない。たとえば、現在の要約筆記奉仕員養成カリキュラムで、小西さんが問題提起しているような関係性をきちんと教えているだろうか。あるいはそこに小西さんが気づいた課題が横たわっていることが、テキストで指摘されているだろうか。現在の奉仕員カリキュラム・テキストでは、そこまで踏み込んではいない。「対人支援」という言葉も、そこにはない。
 ボランティア活動を誠実に長く続ければ、そして障害者との間に平等の関係を作ろうと努めれば、両者の間に、社会が、歴史が、要するに私達がこれまで築いてきた不平等な関係が見えてくる。そのことに気づかずに活動すれば、危うい、ということも分かってくる。では、どのように考え、判断し、行動すれば良いのか、そのことを学ぼうとしても学ぶ場がない、個人的経験の蓄積によって学ぶしかない、というのが、現在の要約筆記奉仕員ではないか。それでは、小西さんが考える危うさは、いつまでたっても構造的に放置されたままになる。
 全難聴が提案した「要約筆記者養成カリキュラム」が万能の妙薬だとは思わない。そこには不足しているものも確かに存在する。しかし、よりましなものであることは明確だと私は考えている。少なくとも日本という国における社会福祉制度のあり方、長い歴史をかけて作られてきた障害者福祉の考え方の変遷と現在のあり方、障害者支援における支援者と支援を受ける人の関係、そういった事項に対して、学ぼうとし、学ぶに耐えるだけのものを用意した、という意味で、奉仕員制度では対応できなかったものに対応しようとしている。
 なぜこの成果を、早く社会に還元しないのか。還元するように働きかけることをしないのか。全要研の中にいて、全要研の理事をしているのだから、それは私自身の力不足ということなのだが、歯がゆい思いは募るばかりだ。ボランティア精神は尊い。それはおそらくすべての始まりだろうと思う。他人のために自発的に何かを始めること、その精神なしに、福祉というものは実体を持たないだろう。そんなことは分かっている。だが、ボランティア精神だけでは不足することも確かなのだ。ボランティア精神にあふれた人の一言が、人を励ますことがあるが、しかし確かに人を傷つけることもあるのだ。それはボランティアの責任としては半分ではないか。ボランティア精神にあふれた人に正しい知識と正しい対応方法を学ぶ場を用意した上でなら、あとはボランティア自身の責任かもしれない。しかし、そういうシステムを作っていないなら、残り半分の責任は、そのシステムを作らないでいる側にあるはずだ。
 これまで確かに存在した不平等な関係に気づいたなら、それを個人が気をつけること、にとどめないで、それを解消する仕組みの構築に向かわなければならない。全要研は、それができる組織であるはずだ。この2年間、要約筆記者制度の創設を推し進められなかった理事・理事長の責任は重い。
  

Posted by TAKA at 02:41Comments(2)TrackBack(0)

2008年04月04日

要約筆記という支援

 全要研ニュース4月号が届いた。その巻頭言に小西理事長が、要約筆記者と中途失聴・難聴者との関係について書いておられる。書いていることの前半、要するに支援をするものと支援を受ける者との関係については、同意できることが多い。両者の間の平等ということの意味、議論になったとき、最後に難聴者が黙ってしまうことの意味に気づいておられるのは、さすが長い経験をもっておられるからだろう。支援する者と支援される者との間の平等の関係は、障害者福祉に関わる者が、いつかは必ず自問する問いなのだと思う。そこには様々な側面があるが、両者の心理的な立場の問題はさておき、情報格差ということについて考えてみたい。
 要約筆記者は聞こえる。聞こえるために、聞こえない人よりたくさんの情報を持っていることが多い。議論になったとき、情報をたくさん持っている方が、一般には有利だ。より正しい結論にたどり着けることも多い。「どうしてそう言えるの?」と尋ねられて、「実は○○だと聞いたよ」と言われれば、その「○○だ」とう情報から隔てられていた者は黙る他はない。聞こえる者と聞こえない者が議論するときに、この情報格差を解消してから話をしないと、本当の意味での平等な議論はできない。それは障害者同士でも問題になる。聞こえの程度にかなりの差がある難聴者が議論しているとき、障害者同士だから平等な立場で議論になっているとは言えない姿を何度か見てきた。より聞こえる側が、より聞こえない側よりたくさんの情報を持ち、聞こえない側を論破していく。
 もちろん聞こえる者同士の議論でもそれは起きる。より多くの情報をつかんでいる者が、有利な立場で議論するということはある。しかし、聞こえない故の情報の少なさを補うための努力を、どこまで聴覚障害者本人に求めることができるのだろうか。いや、聞こえないために情報が少ない、という事態を前にして、私達にできることはなんだろうか。「きちんと情報を保障する」、まずここから始める他はない。議論の場で、より聞こえない人に、より聞こえる人と格差のない情報を伝達することの意味は、平等な環境を作る、という点で限りなく重要だと言える。ではその場の情報が保障されれば、それで問題は大部分解消するだろうか。
 たとえば、完全な情報保障が仮に実現したとして、それで両者は平等になるだろうか。実はそんなに簡単ではない。その情報保障がなされている場にたどり着くまでに、長い間、情報保障のないまま生活してきたのだ。小学校で、中学校で、さらには高等教育の場で、情報保障はあっただろうか。大部分の聴覚障害者、特に難聴者にとって、答えは「ノー」だろう。テレビの字幕はついていたか。科学館の展示に字幕はあったか。そういう環境で育ってきたとしたら、相当の本人の努力があったとしても、情報の格差を埋めきれるかどうか。
 私達要約筆記者は「その場の聞こえを保障する仕事」をする、とされている。その場の通訳ができれば、書き取ったノートテイク用紙は利用者に渡す必要はないとされる。そのこと自体は間違っていない。そうなることを私達は目指している。だが、長い間聞こえない状況におかれてきた人たちにとって、その場の情報保障が、今現在なされている、というだけでは、本当の意味で平等だとは言えない、と私は考える。長い間の情報格差による不平等の蓄積を解消するためであれば、ノートテイクの用紙を渡すことだって意味がある、と考える。最初から記録として使うことを目的として要約筆記を使うのは論外だが、一人の難聴者の人生の側に立てば、書き取られたノートテイクの用紙を渡すことが、本当の意味の支援であり、平等を実現することになる、という場面がある、と考えている。
 支援する側と支援される側、より聞こえる側とより聞こえない側、そうした不平等な関係が、構造的に組み込まれている場合、適切な対応を導くことは、原則論だけでは簡単にはいかない。(この稿続く)
  

Posted by TAKA at 01:56Comments(0)TrackBack(0)要約筆記
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TAKA
コミックから評論、小説まで、本の体裁をしていれば何でも読む。読むことは喜びだ。3年前に手にした「美術館三昧」(藤森照信)や「個人美術館への旅」を手がかりに、最近は美術館巡りという楽しみが増えた。 大学卒業後、友人に誘われるままに始めた「要約筆記」との付き合いも30年を超えた。聴覚障害者のために、人の話を聞いて書き伝える、あるいは日本映画などに、聞こえない人のための日本語字幕を作る。そんな活動に、マッキントッシュを活用してきた。この美しいパソコンも、初代から数えて現在8代目。iMacの次はMAC mini+LEDディスプレイになった。       下出隆史
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