2009年05月08日

「出星前夜」(飯嶋和一)小学館

 飯嶋和一「出星前夜」を読んだ。同じ作者の「始祖鳥記」を読んだのは2年ほど前か。その読了の印象は、きわめて鮮やかだった。まして今回は大佛賞受賞作品。期待に胸ふくらませて読んだのだが、読後の印象は全く異なった。この作品は残念ながら、無闇に分厚いだけだ。
 戦争と医者、というテーマは、司馬遼太郎の「花神」を思い出させた。幕藩体制と農民の蜂起、というテーマでみれば、白土三平の「カムイ外伝」を思い出す。「出星前夜」は、いずれのテーマでも、両者に遙かに及ばない。一つは、小さな破綻が、いくつもあって、物語を読む上で一々目障りだということ。もう一つは、登場人物を描く視点が定まらないこと。例えば、鬼塚監物。彼を描く視点が、登場人物から見た多面的な評価という形で造形されるなら視点が動くことは理解できるが、所々に作者の視点(いわゆる小説における神の視点)からの評価が差し挟まれる。これは意図的なものとは思われない。更に、地図を見ないと理解できない位置関係が取り上げられ、扉に地図が付けられているが、この地図が不十分で、参照しようとしてもできない場所がいくつかあること。
 しかし、これらはある意味では枝葉末節なことに過ぎない。一番の問題は、前半、鬼塚監物が感じ、そのために農の生活を選択した理由となったこと、つまり人を殺すことに対する強い嫌悪感、戦の、人を殺すことで成り立つあり方に対する強い否定が、後半の蜂起の中でどのような形で生きられるか、ということが全くなおざりにされ、ほぼ放棄されているということだ。このことは、寿安においても同じ。人を殺めた者が医者となって人を救えば許されるのか、という問題は、一人の誠実な人間が、生涯をかけるテーマだと思うが、それが寿安の中でどのように生きられたかは、末尾に数ページ、後日譚のように語られる僅かな記述から読み取る他はない。寿安は無私の人として残りの人生を生きたらしい。しかし、彼の中で、かつて人を殺めたことが、どのように生きられたかは分からないままだ。
 「カムイ外伝」では、正助は、蜂起を回避して「逃散」という手段を選択する。死んでは何にもならない、正助は最後までそう考え、最後まで武装蜂起に反対する。鬼塚監物は実在の人物らしいから、彼を逃散の首謀者にすることはできなかったろう。それならば、彼を、戦に対する、人を殺めて成り立つ生活に対する強い嫌悪感を抱いた人物として、物語の前半に造形したことは、そもそも間違っている。この物語が破綻している一番の理由はそこにある。
 歴史小説において、実在の人物の、不明な考え方や不明な行動とその理由を、作者が想像力によって埋めていくことが許されるとしても、それは整合性を保たなければならないはずだ。物語前半の鬼塚監物の考え方、感じ方を作者が造形するとすれば、それは後半の史実につながらなければならない。大佛賞受賞に当たって、「「たしかにここに歴史があった」と言う実感−傑作である」と井上ひさしは評したと、本の腰巻きに書いてあるが、本当だろうか。僕には、歴史は感じられなかった。
  

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2008年06月19日

私家版・ユダヤ文化論(内田樹)文春新書519

 内田樹という書き手を本格的に意識したのは、「寝ながら学べる構造主義」という同じ文春新書の一冊でだった。この「寝ながら・・」は何年か前の私の「今年のこの一冊」になった。小気味よく切れ味の鋭い指摘、日常的な風景から軽くジャンプして哲学的な命題の内部を照らす問題設定など、この人の書くものはだいたい標準以上だ。しかしその一方で、内田樹の書くものに対して、なんというか、本人の本気度というようなところで、今ひとつ信じられないような気持ちがもやもやとあった。対象との間に書き手が作る距離が、普通の人よりかなり広いのだ。「ほら、こんなにきれいに対象を料理しましたよ」と言われているのではないか、という疑いがあったと言えば良いのかも知れない。
 「私家版・ユダヤ文化論」を読んで、ようやく、その疑いは霧散した。これは新書だが、書き手の渾身の思いが伝わってくる。料理の手際よさを誇るだけならば、こんな危険な問いをわざわざ立てる筈がない。書き手は、この本の中で、自分たちが語る言葉を持たないものについて指し示そうとあがく。言葉によって語ることができないものについては語ることができない。そのことを前提とした上で、しかしそこには避けて通れないものがある、と信じている。それが、この本を、動かしている。
 この本を読みながら、我が家の愛犬(ジャミー)のお腹に数ヶ月前からできている腫瘍のようなしこりのことを思い出した。それは、触ればハッキリと分かる。しかしどんなに触っても、ジャミーは何の表情も示さない。そんなジャミーをみていると、「痛み」という感覚さえも、言葉があって初めて知覚されるのではないかと思えてくる。内蔵の痛みを人間は言葉によって知覚し説明し、医者の診察を受け、手術を受けたりするが、犬にとって内臓の痛みは、知覚する意味のないものではないか。喩えそれが命に関わるものであるとしても、ジャミーにとっては、「痛み」として知覚する意味もなければ、言語(鳴き声?)によって表現する必要もないものではないか。もしジャミーがいま言葉を覚えたとしても、腫瘍がもたらす内部の感覚をどのように言語化したら良いかは、全く分からないだろう。
 内田は、ユダヤ問題とはそのような対象だと言っている。それは確かにある、しかしジャミーの内部のしこりのように、それを宿しているものにとっては、説明することのできない何かだという言う。そう言いながら、自分の全能力、論理力の全て、経験のあらゆる側面を挙げて、その問題を問い詰めていく。
 その姿は、まことに、知の冒険と呼ぶことがふさわしい。
  

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2007年11月26日

佐藤克文「ペンギンもクジラも秒速2メートルで泳ぐ」光文社新書

 「ハイテク海洋動物学への招待」という副題を持つこの本の内容は、とても楽しい。一つは内容が分かりやすいのに非常に興味深い知見に満ちているおり、もう一つは新しい学問の創世記にだけ生まれる興奮に満ちているからだ。ペンギンやアザラシ、ウミガメなどの海洋生物の生態、特に水中にいるときの生態はほとんどわかっていない。何しろ簡単には観察できないのだ。まして極地の近くに生息するペンギンなどは氷の下を遊泳しているから、観察は難しい。生体に電波の発信機を付けても、水中では、電波は基本的に使えない。
 そこで、考え出されたのが、ペンギンなどにデータロガーという記録装置を付けて、これを回収するという方法だ。しかしこの方法は、データロガーを付けた個体が、元の場所に戻ってくるという習性を持っていないと使えない。ウミガメは産卵のために2週間ほどで同じ砂浜に帰ってくる、そこでこの間にデータロガーを付けて回収する。ペンギンは、子育ての間中、つがいの他方が餌取りに出かけ、やがて営巣地に戻ってくる、そこで餌取りに出かけるペンギンにデータロガーを付けて回収する。
 そうやって集めたデータから、水中でのこれらの動物の振る舞いを読み取り、水中生物の基礎的な情報を集め、その振る舞いを記述していく。なぜ母親アザラシは、餌取りに関係のない水面近くの遊泳を繰り返すのか、ペンギンは浮上するとき、なぜ胸びれを動かさないのか、そうした問いは、動物の行動については、きわめて基本的なものらしい。そうな基本的なこともまだわかっていないという。そしてそうした基本的な事項を一つ一つ解いていく、そこには、まだ誰も知らない事実や行動を発見していく喜びが満ちている。
 一つの学問が立ち上がろうとしている現場の近くまで、この本は読者を連れて行く。ペンギンが水中に潜る氷の開口部のように、未知の世界へのわずかな覗き窓がそこにある。思わず、首を伸ばしてその窓から、氷下の世界、深度300メートルの世界を覗き込みたくなる。
  

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2007年11月12日

青木幸子「Zoo Keeper」(講談社)

「ZOO KEEPER」の新刊を読み終わる。地方の中規模の動物園に採用された女性(楠野さん)は、赤外線領域まで見えるというちょっと変わった視力を持っている。熱源を見続けると疲れてしまうので、通常は赤外線カットの眼鏡をかけている。この眼鏡は、楠野さんのこの変わった能力を見抜いた熊田園長が誂えてくれたものだ。この園長が持ち出す難題につきあいながら、飼育員の楠野さんは、動物園の存在意義とか、動物と人間の関係などについて考える。その捉え方のユニークなところがこの漫画のおもしろさになっている。
 例えば3巻では、チーターの全力疾走を展示する、という話が出てくる。チーターの時速は平均で100キロ。それはチーターが、狩りをするために発達させた運動能力だ。しかし動物園にいるチーターは、全力で走る必要がない。餌は与えられるのだから。では、動物園のチーターは、全力で走るべきなのかどうか。楠野さんが考えるのに付き合っているうちに、人と動物の違いと共通点が、見えてくる。
 (写真下は、我が家の愛(駄)犬・ジャミー)


 動物と人間との関わりを描いたコミックは多い。「いぬばか」(桜木雪弥)のように、ペットショップを舞台にしたもの、「ワイルドライフ」(藤崎聖人)のように獣医の活動を描いたもの、など切り口も視点も様々だ。「ワイルドライフ」は、獣医(鉄生)が主人公だけに、扱う動物のレパートリーは広い。まして主人公・鉄生は、どんな患畜でも救いたいと願っているので、ほ乳類はもちろん、鳥類、は虫類も、患畜として登場する。今まで知らなかった様々な動物の生態を知るのは楽しいものだ。
 ところで、この鉄生君については、獣医大に在籍してるとき、教科書を逆さまに読んでいた、というエピソードが語られる。最初そのことに気づいた同級生は「こいつは馬鹿か」と思うのだが、その直後、鉄生が、深い意図を持って教科書を逆さまにして読んでいたことに気づく。彼は、教科書に掲載された顕微鏡視野の写真を様々な方向から見るために教科書を逆さまにしたり横にしたりしていたのだ。鉄生は、言う。「本当の試料は、いつも同じ方向から見るとは限らないだろう? そのことで、患畜の病気の原因を見落としたり間違えたりしたくないからな」と。
 この話は、「ワイルドライフ」のだいぶ後の方(10巻過ぎ・・たぶん)になって出てくるのだが、この台詞にはシビレた。そのせいで既に二十数巻になったこの「ワイルドライフ」という本を読み続けているような気がする。およそ、専門家と呼ばれる者はこうでなくてはいけない。一つの専門を学ぶとき、そこには教科書やお手本があるだろう。しかしそれは用意された教科書でありお手本なのだ。どんな事象であっても、現実はもっと豊かで複雑なものだ。教科書やお手本は、その豊かで複雑な現実を、ある類型に従って整理したものに過ぎない。本当にその専門性をきわめようとするなら、教科書やお手本の向こうに、豊かで複雑な現実があることを理解していなければならない。
 話しことばによって語られた内容を理解し、書きことばによってその内容を伝えるようとする要約筆記者は、豊かで複雑な言葉とその言葉で表わされる豊かで複雑な「話し手の意図」を相手にしているのだ。ならば要約筆記者は、日本語による伝達の専門家でなければならない。専門家を目指す者として、読むべき書籍はいくつもあるだろう。それらの本、例えば全難聴が発行している「要約筆記者養成テキスト」を、時には逆さまにして、あるいは横にして読むくらいの気概を持って学びたいと思う。
 「ワイルドライフ」の新刊を読むたびに、あの鉄生の教科書のエピソードをなつかしく思い出す。
  

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2007年11月11日

加藤徹「漢文の素養」(光文社新書)

 文字を持たなかった古代の日本人が、中国の漢字文化に触れてそれをどう消化してきたのか、消化の過程で日本文化が創られていく、その様を、漢文から読み解こうとした意欲的な本だ。要約筆記者養成講座の中で「日本語の特徴」を教えるために、読みあさった何冊かのうちの一冊だが、出色の一冊だった。
 昔から、日本語の中で、そのまま形容詞になる色表現は「赤い」「青い」「白い」「黒い」しかないことを不思議に思っていた。「色」を付けて形容詞化するのが、二つ「黄色い」と「茶色い」。日本人にとって、「みどり」は国土の木々の色として、親しみ深かったはずなのに、「緑い」という形容詞はない、「緑色い」ともいうことができない。それはなぜか、とても不思議だった。ちなみに「赤青白黒」は、そのまま方角にもなっており、日本人にとって、最も基本的な色だということは明らかだ。
 この「漢文の素養」を読んで、初めてこの4つの色が「明るい」「淡い」「著い」「暗い」という明度を表す言葉から生まれたことを知った。そして古代の日本人はおそらく「色彩」というものを意識しておらず、中国の文化に触れて初めて豊かな色彩感覚を身に付けたのだろうと言うことも。まことに、言葉を世界を切り取る方法そのものであり、世界観そのものなのだと分かる。分かることがぞくぞくするほど楽しい、そういう感覚を、何度か味わせてくれる本だ。
 もう一つ、この本を読んで知ったのは、漢文を、弥生時代まではおそらく漢字を単に呪術的なシンボルとして受け入れ、いわば装飾材として用い、やがて仏教を中心とした文化を輸入するために用いられ社会の制度を作り出す生産財として漢文を使いこなし、最後には、漢詩や漢文学といった消費財としたという視点だ。これはきわめてユニークな視点だ。他の言語を一つの社会が受け入れていく場合の受け入れの程度を、この捉え方で計ることができる。
 このほか、日本が漢字文化圏では、唯一、本家中国に新漢字を輸出して恩返しをした国だとか、とにかく日頃親しんでいる漢字仮名交じり文としての日本語の背後にあるものをいくつもいくつも気づかせてくれる。要約筆記に引きつけて読めば、おもしろさ倍増であることは保証するが、たとえ要約筆記とは無関係であっても、こんな面白い本はない。
  

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2007年10月21日

不自由さの自由

 以前に「時代小説は窮屈な小説だ」と書いた。窮屈な小説の対極にあるのが、コミックだなーと思っていた。何しろ非現実的なことでも自由に起こして良いのがコミックだから。四次元ポケットとかどこでもドアなんてものが、平気で描ける。コミックは、一人で監督から俳優から大道具までできる。だから、1970年代以降、日本の映画会社が、助監督制度を廃して監督の養成をやめてしまった後、本来なら映画監督になった才能は、コミック(漫画)に流れた、という説があるくらいだ。例えば、「童夢」や「AKIRA」の大友克洋などは、映画監督の道があれば、きっと監督になっていたのではないか。コミックなら、自分一人で何でもできる、自由にできる。
 しかし本当にそうだろうか。「地平線でダンス」という奇妙なコミックがある。あらすじを書いたら、読んだ人は、何が面白いんだろうと不思議になるかも知れない。でも面白い。どうしてこの作品が面白いのか、と考えているうちに、面白いコミックに存在するある種の共通点に気づいた。それはコミックにおける不自由さ、ということだ。
 コミック(漫画)は、確かにきわめて自由なメディアだ。実写ではないから、どんな世界でも描ける。月世界の宇宙基地もリアルに描けるし、火の鳥だって描ける。潜水艦の中でも、登場人物の内面のつぶやきだって、書ける。そういう自由なメディアだからこそ、おそらく面白いコミックを作るためには、作品の中に、不自由さがなければならない。
 「地平線でダンス」では、タイムトラベルを試みる機械に誤って実験動物のハムスターに閉じこめられて、主人公である春日琴理(素粒子加速器研究所研究員)はハムスターになってしまう。意識は本人だが、身体はハムスターだ。したがって、とても不自由。その後、彼女は今度は犬になるが、本質は変わらない。元(?)研究員の彼女は、タイムトラベルの理論を支える高等な数式を解くが、それを人間の研究員に伝えるのは一苦労だ。恋もしている。とても不自由に。
 かつて「ナニワの金融道」という傑作があった。このコミックでは、街金という非合法すれすれの金融業者のところに就職した比較的まじめな主人公が、どう生きるか、というテーマの元で、様々な街金のテクニックが披露される。先物取引に嵌り、保証金の追い金が必要なり、街金に借りに来て、だんだんは深みに嵌っていく客。その客から、合法的に、財産をむしり取っていく。ただの悪徳業者の実態を描くというのであれば、この「ナニワの金融道」が傑作になったはずはない。街金の舞台に、まじめに生きたいと願う灰原という主人公を置く。名前からして、白でもなければ黒でもない彼の不自由さがあって初めてこの作品は活きたのだと思う。
 浦沢直樹の「PLUTO」の不自由さは、手塚治虫の原作があることか。曽田正人の「昴」の不自由さは、主人公・宮本昴の社会性のなさか。などと考えるのは楽しい。コミックは今なお、その表現の領域を拡大中だが、面白いコミックは、優れた不自由さが仕込まれている。  

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2007年09月28日

浅田次郎「憑神」(新潮文庫)

 浅田次郎の時代小説を初めて読んだ。残念ながらこれはちょっといただけない。浅田次郎という人はなにを書かせてもおもしろく書く。それは知っている。しかし時代小説はいけない。どうしてだろうかと考えた。思ったのは、こういうことである。
 時代小説は窮屈な小説である。現代とは様々なものが切れている。もちろんつながっているものもあるが、切れているものは少なくない。まず言葉の一部が切れている。もはや誰も江戸時代の助動詞は使っていない。政治の仕組みも違う、人々の価値観も違う。その制約の中で書くのが時代小説というものだ。藤沢周平の小説を読むとそのことがわかる。時代小説は、いわば設計図を渡されて筺(はこ)をつくる作業に似ている。筺の材料も寸法も、時には外見の装飾さえ決まっている。勝手につくる訳にはいかないのだ。筺の使い道や細かな細工の意味は、現代からみればよくわからない。よくわからないが、勝手に変えたのでは時代小説ではなくなってしまう。そういう制約を背負っているのが時代小説なんだと私は思ってきた。
 設計図を渡されて寸法通りに作っているのに、作り手の個性がそこに宿ってくる。それどころか正確に作られた時代小説という筺には、今に生きている私たちが理解でき、隣人のように感じる人間が住まうのだ。筺が強固に作られていればいるほど、筺に宿った小説も力強い。それが時代小説のおもしろさだと思う。譜面通りに弾くという作業の果てに、演奏者だけのバッハが聞こえてくると、生涯パイプオルガンを学び続けた森有正は語っていたではないか。それと同じだ。
 「憑神」は決してつまらない小説ではない。物語は奇想天外、次々と趣向をこらして物語は進む。正義感も人情も、当意即妙のやりとりもそこにはある。が、ただ一つ時代小説を時代小説にしているものがない。おそらく著者・浅田次郎は、才能がありすぎるのだ。時代小説として評価されることも著者の望むところではないかも知れない。この小説を時代小説という枠組みで評価しても始まらないともいえる。小説のテーマはおそらく、「死ぬ運命にある」というただ一点で神よりも輝くことができる存在としての人間を描く、というところにあるのだろう。幕末という時代背景を借りてそのテーマを描こうとした著者の試みは成功しているのだろうか。残念ながら私の感想は否定的だ。テーマとして不足はない、が、このテーマを描くのであれば、筺はもっと強固な筺、細部までしっかりと設計された筺でなければならない。著者の自在な筆の運びが、筺を膨らませたりへこませたりする。それでは、このテーマは本当の意味で生きてこないのだろう。
 あの藤沢周平でさえ、完成稿とならないまま中断され、遺稿として刊行された「漆の実の実る国」では、筺はがたがたで、小説はついに立ち上がらないままだ。推敲に推敲を重ねるといわれた藤沢周平は、時代小説が強い筺を必要とすることを知っていたのだ。藤沢周平が亡くなってはや十年。「時代小説」と呼べる作品の新たな書き手はもう現われないのだろうか。  

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2007年09月12日

平田オリザ「対話のレッスン」小学館

 平田オリザの書いたものを、時々読んでいる。東京現代美術館で、彼らの「東京ノート」を見たのはもう5年ほど前になる。そこには見慣れない「劇的なるもの」があった。それまで、私にとっての劇的なるものは、例えば仙台広瀬川河畔の西公園で経験した唐十郎のテント興行、早稲田小劇場が利賀の合掌造りの舞台で見せたオセロ、佐藤信の演出で結城座で見た人形芝居・マクベス、などだった。
 「東京ノート」は、それらの演劇とは全く違う。全く違うけれど、舞台(東京現代美術館ロビー)での会話には、独特の緊張感があった。「対話のレッスン」を読んでいて、何度かあの「東京ノート」の登場人物の会話を思い出した。この本の中で、平田オリザは、現代における対話の重要性を繰り返し説いている。著者は、「対話」を「会話」との対比を通して次のように定義する。「『会話』が、お互いの細かい事情や来歴を知った者同士のさらなる合意形成に重きを置くのに対して、「対話」は、異なる価値観のすり合わせ、差違から出発するコミュニケーションの回復に重点を置く」と。なるほど、演劇は確かに対話を重要な要素としている。互いに対立する価値観や利害関係を持った登場人物が交わす会話が、演劇の推進力になる。
 今日、2007年9月12日、安倍首相が辞意を表明したが、所信表明演説をすませた首相が、代表質問の前に辞めてしまう、というのは、対話の放棄だろう。価値観の違う者が、いくら演説をしあっても、そこから価値観のすり合わせは生まれない。このブログでも何度か取り上げている要約筆記に関する混迷を巡って、最近、全国要約筆記問題研究会が毎月発行している「全要研ニュース」誌上で、二つの立場からの投稿が続いているが、それは「対話」になっているだろうか。演説でもディベートでもなく、「対話」すること、異なる価値観のすりあわせを、両者の立場の差違から始めること、それが求められている。今年、全要研は、10年続いた「全国要約筆記研究討論集会」の非開催を決めているが、いっそ公開討論会を開いてはどうか。いや、違った。「公開対話集会」を開いてはどうか。  

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2007年09月05日

茂木健一郎「脳と仮想」(新潮文庫)

 茂木健一郎の「脳と仮想」を読み終わる。これは、ある意味で奇妙な本だ。私にはなぜ私という意識が宿るのか、という問題意識。世界のあらゆることは、仮想としてしか私たちには認識できない、という主張。そう言ってしまうと、何かが違う。この本の指し示していることがするりと抜けてしまう、という感触が読後に残る。
 「私」とは何か、「意識」とは何か、というデカルト以来の命題を、「脳」という物理的な存在を踏まえつつ、再度吟味しようとする。考えてみると、最近この手のアプローチはいくつか提案されている。そう思って部屋の本箱を見直すと、「心の起源」(木下清一郎)中公新書とか、似た感じの本を買っている。しかしこれら類似の本と比べて、「脳と仮想」には際だって異なる印象がある。それはなぜか。

 おそらく、著者が、小林秀雄の問題意識を自分の課題のように受け止めて小林秀雄の言葉を引く、夏目漱石の「三四郎」の言葉を引く、養老孟司とテレビゲームという組み合わせを深いところまで追求する、というその手法が、脳と仮想というとらえにくいテーマを、俄然具体的なもの、手触りのあるものにする。デカルト以来、疑い得ないものとして確立された「我(われ)」の意識は、「我」以外のもの、要するに物質世界を、因果律によって操作される対象としてとらえ、徹底的に操作してきた。その成果は大きい。少なくとも人を月まで運んで帰還させることができる程度の成果は上げてきた。
 他方、デカルトが自らの問いに答えたときに確立されたはずの「我」は、その後、どのように扱われてきたのか、といえば、「我」の意識は、科学的操作によっては扱えないものとして、棚上げされてきたのだ。「脳と仮想」は、棚上げされてきたその課題を、小林秀雄の追求を杖にして、「サンタクロースはいるの?」という少女の声を契機に、いくつかの小説や映画を引用しつつ、言葉によって他者と分かり合えるとはどういうことかを問いながら、要するに科学的なアプローチと呼ばれてきた方法とは全く異なる方法で、考えようとする。いや、まだそこまで行けない。考えるべき課題がそこにあることを示そうとする。
 脳は、物理的には、150億個とも言われる神経細胞のネットワークである。その150億個の神経細胞の絡み合い、ネットワークの構成に意識が宿る。それはどうやら確かなことのようだ。しかし、なぜそこに意識が、「我」が宿るのか、宿った意識は、外界を直接は知ることかできない、にもかかわらず、あるいは、だからこそ、経験ができることよりも広い世界を仮想することができる。その不思議。
 不思議な感覚に引っ張られるまま、読み終えた。まだその感覚の中にいる。  

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2007年08月24日

伊坂幸太郎「オーデュボンの祈り」(新潮文庫)

 しばらく前から友人に勧められて、伊坂幸太郎の本を何冊か読んできたが、「オーデュボンの祈り」を読んで、圧倒された。これは実質的な出世作らしいのだが、その後、様々な賞を受けた他の作品より、格段に優れている。

 おそらくその理由は、支倉常長の渡欧という歴史的事実を踏まえた百年単位の時間的な流れと、かつては空を真っ黒に覆って群れなしていたアメリカ旅行ハトの絶滅という出来事とを、小さな島の中に閉じこめた、その力業の見事さにある。この途方もなく大きな時間と空間を、島の不思議な住人や喋る案山子の優午がしっかりと支えている。
 この本は、一応ミステリーということになっているが、もっと大きな枠組みでかかれて良かったのだと思う。読後の感想は、大江健三郎の「万延元年のフットボール」に近い。  

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2007年08月24日

米原万里の「愛の法則」(集英社新書)

 今日東京に行く新幹線の中で読み終わったのだが、とても面白かった。この希有なロシア語通訳者を失ったことを改めて残念に思う。
 この本は、四つの講演の記録からなるのだが、もっとも興味を引かれたのは、最後の短い講演録。これは神奈川県要約筆記協会で行われたものだ。「要約筆記」は、聴覚障害者のコミュニケーションを支援するものだが、「手話」ほどは知られていない。聴力が低下している難聴者や、人生の半ばで聴力を失った中途失聴者の場合、手話を学んでいるケースは少ないし、学んだとしてもいわば外国語であって、自由に使いこなさせるようになるには、相当の修練を要する。そこで聞こえるものが、人の話を聞き取ってこれを書いて伝えるという方法、要約筆記が生まれた。今から40年くらい前のことだ。
「愛の法則」の中でも、要約筆記が知られていないことを配慮してか、例示として残されているのは「手話」という言葉のみ。せっかく要約筆記協会で行われた講演だというのに、とても残念。
 しかし、通訳というものが、いったい何をする行為なのか、という点についての米原さんの理解と指摘、そして解説は誠に深い。私はこれまで、通訳は、他人の話を聞いて理解し、理解した概念を、通訳者が他の言語(要約筆記の場合は書き言葉)で再現することだと理解してきた。そのこと自体は、米原さんの理解と主張と変わらないのだが、この本の中で米原さんは、そもそも人がコミュニケーションするとは、話し手が言語という記号に託したものを、聞き手が記号から再生する(再現する)ことだという。そのことをわかりやすく示すために、米原さんは、神様に言葉でお願いしたとき、願いは正確にかなえられるか、という設問をする。「美人にしてください」と言葉で願ったとき、神様が考えている「美人」が願っている人が望んでいる「美人」に一致している保証はない。
 なんだ、コミュニケーションが、結局、話し手が言おうとしたなにやらもやもやした概念を言葉という記号に置き換えること、そして聞き手はこの記号から、話し手の意図したもの、言いたかったもやもやっとしたものを再現すること、からなっている、というなら、通訳者だけが特殊なことをしている訳じゃなかったんだ。  

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TAKA
コミックから評論、小説まで、本の体裁をしていれば何でも読む。読むことは喜びだ。3年前に手にした「美術館三昧」(藤森照信)や「個人美術館への旅」を手がかりに、最近は美術館巡りという楽しみが増えた。 大学卒業後、友人に誘われるままに始めた「要約筆記」との付き合いも30年を超えた。聴覚障害者のために、人の話を聞いて書き伝える、あるいは日本映画などに、聞こえない人のための日本語字幕を作る。そんな活動に、マッキントッシュを活用してきた。この美しいパソコンも、初代から数えて現在8代目。iMacの次はMAC mini+LEDディスプレイになった。       下出隆史
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