2008年06月19日
私家版・ユダヤ文化論(内田樹)文春新書519
内田樹という書き手を本格的に意識したのは、「寝ながら学べる構造主義」という同じ文春新書の一冊でだった。この「寝ながら・・」は何年か前の私の「今年のこの一冊」になった。小気味よく切れ味の鋭い指摘、日常的な風景から軽くジャンプして哲学的な命題の内部を照らす問題設定など、この人の書くものはだいたい標準以上だ。しかしその一方で、内田樹の書くものに対して、なんというか、本人の本気度というようなところで、今ひとつ信じられないような気持ちがもやもやとあった。対象との間に書き手が作る距離が、普通の人よりかなり広いのだ。「ほら、こんなにきれいに対象を料理しましたよ」と言われているのではないか、という疑いがあったと言えば良いのかも知れない。
「私家版・ユダヤ文化論」を読んで、ようやく、その疑いは霧散した。これは新書だが、書き手の渾身の思いが伝わってくる。料理の手際よさを誇るだけならば、こんな危険な問いをわざわざ立てる筈がない。書き手は、この本の中で、自分たちが語る言葉を持たないものについて指し示そうとあがく。言葉によって語ることができないものについては語ることができない。そのことを前提とした上で、しかしそこには避けて通れないものがある、と信じている。それが、この本を、動かしている。
この本を読みながら、我が家の愛犬(ジャミー)のお腹に数ヶ月前からできている腫瘍のようなしこりのことを思い出した。それは、触ればハッキリと分かる。しかしどんなに触っても、ジャミーは何の表情も示さない。そんなジャミーをみていると、「痛み」という感覚さえも、言葉があって初めて知覚されるのではないかと思えてくる。内蔵の痛みを人間は言葉によって知覚し説明し、医者の診察を受け、手術を受けたりするが、犬にとって内臓の痛みは、知覚する意味のないものではないか。喩えそれが命に関わるものであるとしても、ジャミーにとっては、「痛み」として知覚する意味もなければ、言語(鳴き声?)によって表現する必要もないものではないか。もしジャミーがいま言葉を覚えたとしても、腫瘍がもたらす内部の感覚をどのように言語化したら良いかは、全く分からないだろう。
内田は、ユダヤ問題とはそのような対象だと言っている。それは確かにある、しかしジャミーの内部のしこりのように、それを宿しているものにとっては、説明することのできない何かだという言う。そう言いながら、自分の全能力、論理力の全て、経験のあらゆる側面を挙げて、その問題を問い詰めていく。
その姿は、まことに、知の冒険と呼ぶことがふさわしい。
「私家版・ユダヤ文化論」を読んで、ようやく、その疑いは霧散した。これは新書だが、書き手の渾身の思いが伝わってくる。料理の手際よさを誇るだけならば、こんな危険な問いをわざわざ立てる筈がない。書き手は、この本の中で、自分たちが語る言葉を持たないものについて指し示そうとあがく。言葉によって語ることができないものについては語ることができない。そのことを前提とした上で、しかしそこには避けて通れないものがある、と信じている。それが、この本を、動かしている。
この本を読みながら、我が家の愛犬(ジャミー)のお腹に数ヶ月前からできている腫瘍のようなしこりのことを思い出した。それは、触ればハッキリと分かる。しかしどんなに触っても、ジャミーは何の表情も示さない。そんなジャミーをみていると、「痛み」という感覚さえも、言葉があって初めて知覚されるのではないかと思えてくる。内蔵の痛みを人間は言葉によって知覚し説明し、医者の診察を受け、手術を受けたりするが、犬にとって内臓の痛みは、知覚する意味のないものではないか。喩えそれが命に関わるものであるとしても、ジャミーにとっては、「痛み」として知覚する意味もなければ、言語(鳴き声?)によって表現する必要もないものではないか。もしジャミーがいま言葉を覚えたとしても、腫瘍がもたらす内部の感覚をどのように言語化したら良いかは、全く分からないだろう。
内田は、ユダヤ問題とはそのような対象だと言っている。それは確かにある、しかしジャミーの内部のしこりのように、それを宿しているものにとっては、説明することのできない何かだという言う。そう言いながら、自分の全能力、論理力の全て、経験のあらゆる側面を挙げて、その問題を問い詰めていく。
その姿は、まことに、知の冒険と呼ぶことがふさわしい。