2009年05月08日

「出星前夜」(飯嶋和一)小学館

 飯嶋和一「出星前夜」を読んだ。同じ作者の「始祖鳥記」を読んだのは2年ほど前か。その読了の印象は、きわめて鮮やかだった。まして今回は大佛賞受賞作品。期待に胸ふくらませて読んだのだが、読後の印象は全く異なった。この作品は残念ながら、無闇に分厚いだけだ。
 戦争と医者、というテーマは、司馬遼太郎の「花神」を思い出させた。幕藩体制と農民の蜂起、というテーマでみれば、白土三平の「カムイ外伝」を思い出す。「出星前夜」は、いずれのテーマでも、両者に遙かに及ばない。一つは、小さな破綻が、いくつもあって、物語を読む上で一々目障りだということ。もう一つは、登場人物を描く視点が定まらないこと。例えば、鬼塚監物。彼を描く視点が、登場人物から見た多面的な評価という形で造形されるなら視点が動くことは理解できるが、所々に作者の視点(いわゆる小説における神の視点)からの評価が差し挟まれる。これは意図的なものとは思われない。更に、地図を見ないと理解できない位置関係が取り上げられ、扉に地図が付けられているが、この地図が不十分で、参照しようとしてもできない場所がいくつかあること。
 しかし、これらはある意味では枝葉末節なことに過ぎない。一番の問題は、前半、鬼塚監物が感じ、そのために農の生活を選択した理由となったこと、つまり人を殺すことに対する強い嫌悪感、戦の、人を殺すことで成り立つあり方に対する強い否定が、後半の蜂起の中でどのような形で生きられるか、ということが全くなおざりにされ、ほぼ放棄されているということだ。このことは、寿安においても同じ。人を殺めた者が医者となって人を救えば許されるのか、という問題は、一人の誠実な人間が、生涯をかけるテーマだと思うが、それが寿安の中でどのように生きられたかは、末尾に数ページ、後日譚のように語られる僅かな記述から読み取る他はない。寿安は無私の人として残りの人生を生きたらしい。しかし、彼の中で、かつて人を殺めたことが、どのように生きられたかは分からないままだ。
 「カムイ外伝」では、正助は、蜂起を回避して「逃散」という手段を選択する。死んでは何にもならない、正助は最後までそう考え、最後まで武装蜂起に反対する。鬼塚監物は実在の人物らしいから、彼を逃散の首謀者にすることはできなかったろう。それならば、彼を、戦に対する、人を殺めて成り立つ生活に対する強い嫌悪感を抱いた人物として、物語の前半に造形したことは、そもそも間違っている。この物語が破綻している一番の理由はそこにある。
 歴史小説において、実在の人物の、不明な考え方や不明な行動とその理由を、作者が想像力によって埋めていくことが許されるとしても、それは整合性を保たなければならないはずだ。物語前半の鬼塚監物の考え方、感じ方を作者が造形するとすれば、それは後半の史実につながらなければならない。大佛賞受賞に当たって、「「たしかにここに歴史があった」と言う実感−傑作である」と井上ひさしは評したと、本の腰巻きに書いてあるが、本当だろうか。僕には、歴史は感じられなかった。


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Posted by Wajtekgorpolla at 2022年09月20日 18:03
 

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TAKA
コミックから評論、小説まで、本の体裁をしていれば何でも読む。読むことは喜びだ。3年前に手にした「美術館三昧」(藤森照信)や「個人美術館への旅」を手がかりに、最近は美術館巡りという楽しみが増えた。 大学卒業後、友人に誘われるままに始めた「要約筆記」との付き合いも30年を超えた。聴覚障害者のために、人の話を聞いて書き伝える、あるいは日本映画などに、聞こえない人のための日本語字幕を作る。そんな活動に、マッキントッシュを活用してきた。この美しいパソコンも、初代から数えて現在8代目。iMacの次はMAC mini+LEDディスプレイになった。       下出隆史
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