2008年11月19日
木喰と写楽
だいぶ前のことになるが、木喰(もくじき)展を見に行った。木喰は、円空仏に似た独特の木彫で知られる。その作風は極めて独創的だと思う。喜怒哀楽、人間の持つ豊かな感情の表現がそこにある。木喰上人は、18世紀の人だ。
しかし、その喜怒哀楽の表現は、同時代の仏像表現と比べれば独創的だが、個性の表現ということはできない。そこで表現されているのは、確かに喜怒哀楽の感情だが、特定の個人の感情ではない。それは人間の感情一般の誇張された表現だということができる。
さらに時代をさかのぼれば、そうした人間の感情一般の表現ではなく、仏の慈愛とか厳しさとか、そうした表現に出逢う。というか、永く表現されるべきは、人間の理想としての神や仏の神性や仏性であり、人間の感情ではなかった。法隆寺の四天王は、仏を守護する四天王の性質を表現するが、それは人間一般の感情の表現ではない。東大寺南大門の阿吽の金剛力士像は、大きな感情を表現しているように見えるが、人間の感情表現に直接つながっているとは思われない。
これに対して木喰の作品は明らかに人間の感情を表現しようとしている。しかし、それでも木喰の時代、それは人間の喜怒哀楽ではあるものの、人間の感情一般であって、モデルとしての個人を感じさせるものにはなっていない。
木喰上人の生きた時代のすぐ後に、写楽がいる。写楽の描いた役者絵には、個人を感じることがある。木喰から写楽へ。その違いは、おそらく普通に考えるより大きいのだと思う。
しかし、その喜怒哀楽の表現は、同時代の仏像表現と比べれば独創的だが、個性の表現ということはできない。そこで表現されているのは、確かに喜怒哀楽の感情だが、特定の個人の感情ではない。それは人間の感情一般の誇張された表現だということができる。
さらに時代をさかのぼれば、そうした人間の感情一般の表現ではなく、仏の慈愛とか厳しさとか、そうした表現に出逢う。というか、永く表現されるべきは、人間の理想としての神や仏の神性や仏性であり、人間の感情ではなかった。法隆寺の四天王は、仏を守護する四天王の性質を表現するが、それは人間一般の感情の表現ではない。東大寺南大門の阿吽の金剛力士像は、大きな感情を表現しているように見えるが、人間の感情表現に直接つながっているとは思われない。
これに対して木喰の作品は明らかに人間の感情を表現しようとしている。しかし、それでも木喰の時代、それは人間の喜怒哀楽ではあるものの、人間の感情一般であって、モデルとしての個人を感じさせるものにはなっていない。
木喰上人の生きた時代のすぐ後に、写楽がいる。写楽の描いた役者絵には、個人を感じることがある。木喰から写楽へ。その違いは、おそらく普通に考えるより大きいのだと思う。