2007年09月05日

茂木健一郎「脳と仮想」(新潮文庫)

 茂木健一郎の「脳と仮想」を読み終わる。これは、ある意味で奇妙な本だ。私にはなぜ私という意識が宿るのか、という問題意識。世界のあらゆることは、仮想としてしか私たちには認識できない、という主張。そう言ってしまうと、何かが違う。この本の指し示していることがするりと抜けてしまう、という感触が読後に残る。
 「私」とは何か、「意識」とは何か、というデカルト以来の命題を、「脳」という物理的な存在を踏まえつつ、再度吟味しようとする。考えてみると、最近この手のアプローチはいくつか提案されている。そう思って部屋の本箱を見直すと、「心の起源」(木下清一郎)中公新書とか、似た感じの本を買っている。しかしこれら類似の本と比べて、「脳と仮想」には際だって異なる印象がある。それはなぜか。

 おそらく、著者が、小林秀雄の問題意識を自分の課題のように受け止めて小林秀雄の言葉を引く、夏目漱石の「三四郎」の言葉を引く、養老孟司とテレビゲームという組み合わせを深いところまで追求する、というその手法が、脳と仮想というとらえにくいテーマを、俄然具体的なもの、手触りのあるものにする。デカルト以来、疑い得ないものとして確立された「我(われ)」の意識は、「我」以外のもの、要するに物質世界を、因果律によって操作される対象としてとらえ、徹底的に操作してきた。その成果は大きい。少なくとも人を月まで運んで帰還させることができる程度の成果は上げてきた。
 他方、デカルトが自らの問いに答えたときに確立されたはずの「我」は、その後、どのように扱われてきたのか、といえば、「我」の意識は、科学的操作によっては扱えないものとして、棚上げされてきたのだ。「脳と仮想」は、棚上げされてきたその課題を、小林秀雄の追求を杖にして、「サンタクロースはいるの?」という少女の声を契機に、いくつかの小説や映画を引用しつつ、言葉によって他者と分かり合えるとはどういうことかを問いながら、要するに科学的なアプローチと呼ばれてきた方法とは全く異なる方法で、考えようとする。いや、まだそこまで行けない。考えるべき課題がそこにあることを示そうとする。
 脳は、物理的には、150億個とも言われる神経細胞のネットワークである。その150億個の神経細胞の絡み合い、ネットワークの構成に意識が宿る。それはどうやら確かなことのようだ。しかし、なぜそこに意識が、「我」が宿るのか、宿った意識は、外界を直接は知ることかできない、にもかかわらず、あるいは、だからこそ、経験ができることよりも広い世界を仮想することができる。その不思議。
 不思議な感覚に引っ張られるまま、読み終えた。まだその感覚の中にいる。


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TAKA
コミックから評論、小説まで、本の体裁をしていれば何でも読む。読むことは喜びだ。3年前に手にした「美術館三昧」(藤森照信)や「個人美術館への旅」を手がかりに、最近は美術館巡りという楽しみが増えた。 大学卒業後、友人に誘われるままに始めた「要約筆記」との付き合いも30年を超えた。聴覚障害者のために、人の話を聞いて書き伝える、あるいは日本映画などに、聞こえない人のための日本語字幕を作る。そんな活動に、マッキントッシュを活用してきた。この美しいパソコンも、初代から数えて現在8代目。iMacの次はMAC mini+LEDディスプレイになった。       下出隆史
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