2007年10月21日

不自由さの自由

 以前に「時代小説は窮屈な小説だ」と書いた。窮屈な小説の対極にあるのが、コミックだなーと思っていた。何しろ非現実的なことでも自由に起こして良いのがコミックだから。四次元ポケットとかどこでもドアなんてものが、平気で描ける。コミックは、一人で監督から俳優から大道具までできる。だから、1970年代以降、日本の映画会社が、助監督制度を廃して監督の養成をやめてしまった後、本来なら映画監督になった才能は、コミック(漫画)に流れた、という説があるくらいだ。例えば、「童夢」や「AKIRA」の大友克洋などは、映画監督の道があれば、きっと監督になっていたのではないか。コミックなら、自分一人で何でもできる、自由にできる。
 しかし本当にそうだろうか。「地平線でダンス」という奇妙なコミックがある。あらすじを書いたら、読んだ人は、何が面白いんだろうと不思議になるかも知れない。でも面白い。どうしてこの作品が面白いのか、と考えているうちに、面白いコミックに存在するある種の共通点に気づいた。それはコミックにおける不自由さ、ということだ。
 コミック(漫画)は、確かにきわめて自由なメディアだ。実写ではないから、どんな世界でも描ける。月世界の宇宙基地もリアルに描けるし、火の鳥だって描ける。潜水艦の中でも、登場人物の内面のつぶやきだって、書ける。そういう自由なメディアだからこそ、おそらく面白いコミックを作るためには、作品の中に、不自由さがなければならない。
 「地平線でダンス」では、タイムトラベルを試みる機械に誤って実験動物のハムスターに閉じこめられて、主人公である春日琴理(素粒子加速器研究所研究員)はハムスターになってしまう。意識は本人だが、身体はハムスターだ。したがって、とても不自由。その後、彼女は今度は犬になるが、本質は変わらない。元(?)研究員の彼女は、タイムトラベルの理論を支える高等な数式を解くが、それを人間の研究員に伝えるのは一苦労だ。恋もしている。とても不自由に。
 かつて「ナニワの金融道」という傑作があった。このコミックでは、街金という非合法すれすれの金融業者のところに就職した比較的まじめな主人公が、どう生きるか、というテーマの元で、様々な街金のテクニックが披露される。先物取引に嵌り、保証金の追い金が必要なり、街金に借りに来て、だんだんは深みに嵌っていく客。その客から、合法的に、財産をむしり取っていく。ただの悪徳業者の実態を描くというのであれば、この「ナニワの金融道」が傑作になったはずはない。街金の舞台に、まじめに生きたいと願う灰原という主人公を置く。名前からして、白でもなければ黒でもない彼の不自由さがあって初めてこの作品は活きたのだと思う。
 浦沢直樹の「PLUTO」の不自由さは、手塚治虫の原作があることか。曽田正人の「昴」の不自由さは、主人公・宮本昴の社会性のなさか。などと考えるのは楽しい。コミックは今なお、その表現の領域を拡大中だが、面白いコミックは、優れた不自由さが仕込まれている。


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TAKA
コミックから評論、小説まで、本の体裁をしていれば何でも読む。読むことは喜びだ。3年前に手にした「美術館三昧」(藤森照信)や「個人美術館への旅」を手がかりに、最近は美術館巡りという楽しみが増えた。 大学卒業後、友人に誘われるままに始めた「要約筆記」との付き合いも30年を超えた。聴覚障害者のために、人の話を聞いて書き伝える、あるいは日本映画などに、聞こえない人のための日本語字幕を作る。そんな活動に、マッキントッシュを活用してきた。この美しいパソコンも、初代から数えて現在8代目。iMacの次はMAC mini+LEDディスプレイになった。       下出隆史
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