2007年10月12日
通訳としての要約筆記−承前
前回、要約筆記が通訳として機能させることを困難にした理由について、私の考えるところを書いた。では、なぜ要約筆記は通訳として機能しなければならないのか、そのためには何が必要なのか、について考えるところを書いてみたい。
前者については、すでに何度かこのブログに書いてきたが、要するに、要約筆記の目的をその場の情報保障に求めたからだ。9月20日付けのブログ「聞こえの保障と要約筆記」に表として示したものを再掲する。
横軸:前もって準備できるものか、その場で対応するしかないものか
縦軸:話の内容が重要か、どんな風には話されたかといった表現が重要か
内容が重要
☆ ↑ ★ 会議
事 | 講演
前 ◆映画 プラネタリウム
に←————————┼——————→その場で発言
準 芝居 |
備 |
落語 ↓
表現が重要
(等幅フォントで表示してください)
要約筆記が用いられる対象を、その場で話されるものであり、内容を重視するもの、と考えると、伝えるべきは内容であって、どのような話されたか、といった側面は後回しにせざる得ない。これも繰り返しになるが、聴覚障害者に対する情報保障のすべての領域に対して、私は「通訳として」の行為が必要になると言っているのではない。この表の中で言えば、「通訳としての要約筆記」が求められる領域は右上のわずかな部分だ。それ以外の領域、例えば映画の情報保障は、「通訳として」の行為ではない。また、内容よりもその表現を重視する領域(図の下方)でも、「通訳として」の行為だけでは対応できない。
しかし、この図の右上の領域については、逆に通訳としての要約筆記でなければ対応できないと考えている。というか、この領域で、聴覚障害者を本当の意味で支援するためになされている行為を、「通訳として要約筆記」と呼んでいるということなのだ。その場で話されている内容をその場の参加者に伝え、その場の参加者が、伝えられたものによって自らの考えをまとめ、判断し、参加できる、そのための情報保障の姿はどのようなものか、それが問われているのだ。
このとき、伝えるべきは、まずなにより内容だ。話題となっている事項に対する話し手の意見や、話し手の立場、つまり賛成か反対かが問われているのであって、大阪弁で意見を言ったか、あるいは賛成したか名古屋弁で反対したかが問われている訳ではない。次に、伝達行為の遅れには許容限度があることも大きい。要約筆記を使う聴覚障害者の、その場への参加を保障しようとすれば、遅れは、話し終わりから、10秒程度までしか許容されないことが多いだろう。これらの条件を満たそうとすれば、要約筆記者が行なう行為は、話し手の言葉ではなく、話し手が自らの話で伝えようと願った意図を、できる限り短い書きことばで、再現しようとする行為以外考えられない。にもかかわらず、要約筆記者が、話し手の使った言葉を大切にしようとする理由は何だろうか。畢竟、話し手の言葉は、話し手が自らの言葉で伝えようと願ったものをよく表わしているという理解ではないか。しかし、言葉を丸ごと再現できない限り、話し手の言葉それ自体が、話し手の伝えようとした意図を最もよく伝えることにならないのだ。
相手との関係を配慮して、例えば「あまりお引き留めして、後のご予定に差し支えては、と心配しておりますが。」と話したとき、その配慮の気持ちは、そこで用いられた言葉のすべてを、百歩ゆずっても大部分を再現しない限り、十全には再現されないし、伝えられない。書き取れる文字数の制約があるとき、話し手の言葉を使って、「お引き留めしては?」とか、「心配しておりますが?」とだけ要約筆記の画面に書かれたとすれば、話し手の意図は、伝わらない可能性が高い。まして「あまりお引き留めして」まで書いて後が書けなければ、なにも伝わらない。この例で言えば、「退席されては?」と書いた方が、話し手の意図は少なくとも伝わるはずだ。
その場の情報をその場で保障する、しかも内容を重視して伝える、という場面に限れば、要約筆記は、話し手の意図の伝達をその使命とすることは明らかではないだろうか。話し手の意図の伝達という目的、そのために、第一の言語形態(ここでは話しことば)によって語られた話し手の意図を、第二の言語形態(ここでは書きことば)によって伝えようとする、と考えれば、これは言語間の通訳が目指すものとなんら変わりはない。第一の言語形態に例えば英語を、第二の言語形態に例えば日本語を、それぞれ入れてみれば、これは明らかだろう。要約筆記は、この意味で、「通訳」と呼んで差し替えない。
では、第一の言語形態(ここでは話しことば)によって語られた話し手の意図を、第二の言語形態(ここでは書きことば)によって伝えること、結果的に、話し手の意図を伝達するという目的は、どのようにして達成されるのか。その問いに対する回答として、全難聴が2005年度の要約筆記に関する調査研究事業でまとめた「要約筆記者養成カリキュラム」とそのテキスト以上のものを、現時点では私は知らない。このカリキュラムの背後には、十分とは言えないが、それまで誰も取り組まなかった話しことばに対する実証的な検討がある。日本語の話しことばの運用に対して、その話され方がどのような意図に基づくのかという検討がある、同じ内容をより短く表現する場合の原則と例外を類型化しようとした取り組みがある。そこを見て取らなければ、この「要約筆記者養成カリキュラム」を理解したことにはならない。
2000年以降に、主に東京で、個人名をあげれば、東京の要約筆記者である三宅初穂氏によって行なわれたこの実証的な検討は、それまで誰も取り組まなかった類のものだ。おそらくは、話しことばの録音と、実際に書かれた要約筆記のシートを使ってなされたその考証は、日本語を普通に使っている人の気づきや思いつきのレベルを越えて、話しことばによる意図の伝達の仕組みに迫る初めての取り組みになった。
通訳としての要約筆記、つまり聞こえない人、聞こえにくい人の権利擁護のために役立つ要約筆記を実現しようとする私たちに求められているのは、この実証的な検討を押し進めることだ。三宅氏は、その検討の成果を「話しことばの要約」(発行:杉並要約筆記者の会「さくらんぽ」)など何冊かの本にまとめて上梓されているが、実証的な検討それ自体はほとんど明らかにしていない。しかし、実際に行なわれたその実証的検討の内容と意味を知り、その道を、要約筆記者を養成しようとする者が通らないと、「通訳としての要約筆記」は、本当の意味では成熟しないのではないか。三宅氏の取り組みの成果だけを学ぶのではなく、その取り組みの課程を学ばなければ、本当のところで、話し手の意図を、手書きの書きことばによって通訳する道は、拓けない。
前者については、すでに何度かこのブログに書いてきたが、要するに、要約筆記の目的をその場の情報保障に求めたからだ。9月20日付けのブログ「聞こえの保障と要約筆記」に表として示したものを再掲する。
横軸:前もって準備できるものか、その場で対応するしかないものか
縦軸:話の内容が重要か、どんな風には話されたかといった表現が重要か
内容が重要
☆ ↑ ★ 会議
事 | 講演
前 ◆映画 プラネタリウム
に←————————┼——————→その場で発言
準 芝居 |
備 |
落語 ↓
表現が重要
(等幅フォントで表示してください)
要約筆記が用いられる対象を、その場で話されるものであり、内容を重視するもの、と考えると、伝えるべきは内容であって、どのような話されたか、といった側面は後回しにせざる得ない。これも繰り返しになるが、聴覚障害者に対する情報保障のすべての領域に対して、私は「通訳として」の行為が必要になると言っているのではない。この表の中で言えば、「通訳としての要約筆記」が求められる領域は右上のわずかな部分だ。それ以外の領域、例えば映画の情報保障は、「通訳として」の行為ではない。また、内容よりもその表現を重視する領域(図の下方)でも、「通訳として」の行為だけでは対応できない。
しかし、この図の右上の領域については、逆に通訳としての要約筆記でなければ対応できないと考えている。というか、この領域で、聴覚障害者を本当の意味で支援するためになされている行為を、「通訳として要約筆記」と呼んでいるということなのだ。その場で話されている内容をその場の参加者に伝え、その場の参加者が、伝えられたものによって自らの考えをまとめ、判断し、参加できる、そのための情報保障の姿はどのようなものか、それが問われているのだ。
このとき、伝えるべきは、まずなにより内容だ。話題となっている事項に対する話し手の意見や、話し手の立場、つまり賛成か反対かが問われているのであって、大阪弁で意見を言ったか、あるいは賛成したか名古屋弁で反対したかが問われている訳ではない。次に、伝達行為の遅れには許容限度があることも大きい。要約筆記を使う聴覚障害者の、その場への参加を保障しようとすれば、遅れは、話し終わりから、10秒程度までしか許容されないことが多いだろう。これらの条件を満たそうとすれば、要約筆記者が行なう行為は、話し手の言葉ではなく、話し手が自らの話で伝えようと願った意図を、できる限り短い書きことばで、再現しようとする行為以外考えられない。にもかかわらず、要約筆記者が、話し手の使った言葉を大切にしようとする理由は何だろうか。畢竟、話し手の言葉は、話し手が自らの言葉で伝えようと願ったものをよく表わしているという理解ではないか。しかし、言葉を丸ごと再現できない限り、話し手の言葉それ自体が、話し手の伝えようとした意図を最もよく伝えることにならないのだ。
相手との関係を配慮して、例えば「あまりお引き留めして、後のご予定に差し支えては、と心配しておりますが。」と話したとき、その配慮の気持ちは、そこで用いられた言葉のすべてを、百歩ゆずっても大部分を再現しない限り、十全には再現されないし、伝えられない。書き取れる文字数の制約があるとき、話し手の言葉を使って、「お引き留めしては?」とか、「心配しておりますが?」とだけ要約筆記の画面に書かれたとすれば、話し手の意図は、伝わらない可能性が高い。まして「あまりお引き留めして」まで書いて後が書けなければ、なにも伝わらない。この例で言えば、「退席されては?」と書いた方が、話し手の意図は少なくとも伝わるはずだ。
その場の情報をその場で保障する、しかも内容を重視して伝える、という場面に限れば、要約筆記は、話し手の意図の伝達をその使命とすることは明らかではないだろうか。話し手の意図の伝達という目的、そのために、第一の言語形態(ここでは話しことば)によって語られた話し手の意図を、第二の言語形態(ここでは書きことば)によって伝えようとする、と考えれば、これは言語間の通訳が目指すものとなんら変わりはない。第一の言語形態に例えば英語を、第二の言語形態に例えば日本語を、それぞれ入れてみれば、これは明らかだろう。要約筆記は、この意味で、「通訳」と呼んで差し替えない。
では、第一の言語形態(ここでは話しことば)によって語られた話し手の意図を、第二の言語形態(ここでは書きことば)によって伝えること、結果的に、話し手の意図を伝達するという目的は、どのようにして達成されるのか。その問いに対する回答として、全難聴が2005年度の要約筆記に関する調査研究事業でまとめた「要約筆記者養成カリキュラム」とそのテキスト以上のものを、現時点では私は知らない。このカリキュラムの背後には、十分とは言えないが、それまで誰も取り組まなかった話しことばに対する実証的な検討がある。日本語の話しことばの運用に対して、その話され方がどのような意図に基づくのかという検討がある、同じ内容をより短く表現する場合の原則と例外を類型化しようとした取り組みがある。そこを見て取らなければ、この「要約筆記者養成カリキュラム」を理解したことにはならない。
2000年以降に、主に東京で、個人名をあげれば、東京の要約筆記者である三宅初穂氏によって行なわれたこの実証的な検討は、それまで誰も取り組まなかった類のものだ。おそらくは、話しことばの録音と、実際に書かれた要約筆記のシートを使ってなされたその考証は、日本語を普通に使っている人の気づきや思いつきのレベルを越えて、話しことばによる意図の伝達の仕組みに迫る初めての取り組みになった。
通訳としての要約筆記、つまり聞こえない人、聞こえにくい人の権利擁護のために役立つ要約筆記を実現しようとする私たちに求められているのは、この実証的な検討を押し進めることだ。三宅氏は、その検討の成果を「話しことばの要約」(発行:杉並要約筆記者の会「さくらんぽ」)など何冊かの本にまとめて上梓されているが、実証的な検討それ自体はほとんど明らかにしていない。しかし、実際に行なわれたその実証的検討の内容と意味を知り、その道を、要約筆記者を養成しようとする者が通らないと、「通訳としての要約筆記」は、本当の意味では成熟しないのではないか。三宅氏の取り組みの成果だけを学ぶのではなく、その取り組みの課程を学ばなければ、本当のところで、話し手の意図を、手書きの書きことばによって通訳する道は、拓けない。