2007年10月28日
「聞こえの保障」と「情報保障」
このブログでしばしば「聞こえの保障」という言い方をしてきた。これに対して、最近は「情報保障」ということが多い。「聞こえの保障」と「情報保障」とは何が違うのだろうか。このことを考えるためには、まず「情報」とは何か、ということを明確にする必要がある。
「情報」という言葉は便利なので気軽に使うが、よく考えるとなかなか定義することが難しい。人間が五感で感じるもの(知覚や感覚)であっても、広く「情報」と呼べないことはない。しかし、「情報保障」という場合の「情報」は、人の判断や行動の意志決定をするために役立つものを意味している。では、人の判断や行動の意志決定をするにめに役立つものがすべて「情報」かというと、必ずしもそうは言えない。「情報」とは、人の判断や行動の意志決定をするにめに役立つもののうち、その場でもたらされ、その場で必要になるものを意味していることが多い。時間が経てば、判断や行動の意志決定に役立たなくなることも多いからだ。台風で大雨が降り、河川が決壊しそうだというとき、自宅近くの川の水位や地域の降雨量などは重要な情報になる。避難するかどうかの判断の材料になるからだ。しかし、数日前のその川の水位や、あるいは今日の水位であっても遠く離れた河川の水位は、情報としてはあまり意味を持たない。この場での自らの判断や行動の意志決定のために使えないからだ。
では時間に関係なく、いつでも役に立つというものはないのだろうか。もちろんある。通常そうしたものは「知識」と呼ばれるのではないだろうか。「この辺りは去年の台風でも水に浸かった」という知識があり、「今日の降雨量は、去年の台風並」という情報が入ってきて、「では、早めに避難所に避難しよう」という判断が生まれる。避難所の場所も、広域避難所として予め知らされている場合は「知識」として役立つし、町内会の組長さんが「今日は○○に避難して」と教えにきてくれれば、「貴重な情報をありがとう」ということになる。
まとめると、「情報」とは、人の判断や行動の意志決定に役立つものであり、その場でもたらされ、その場で役立つもの、ということができる。
こう考えれば、「情報保障」とは、人が判断したり行動の意志決定をしたりするために、その場でもたらされるべきものを保障すること、を意味していることが分かる。ちなみに「保障」とは、本来あるべきものが守られている状態を指している。これが一度失われたものをつぐなうという意味の「補償」との差異だ(したがって、「安全保障条約」は安全な状態を守るためであり、「戦時補償」は戦時の損失を補うため、と理解できる)。
「聞こえの保障」は、聞こえることすべてを、本来あるように守りたいという意味になる。聞こえることすべてが「情報」として、人の判断や行動の意志決定のために用いられる訳ではない。私たちは、音楽も聴くし落語も楽しむ。それらは、私たちの聞こえの世界を形作ってはいるが、通常は「情報」としては扱われていない。したがって、聴覚障害者にとって聞こえの保障を求めるとは、「情報」も「情報でないもの」も等しく、つまり音声として聞こえているものを、聞こえる人が感じ、理解できるように、同じように感じ、理解したい、という要求だと言うことだ。その要求は、基本的人権の上に立つものであり、人として当然のものだということができる。しかし、現実には、すべてを直ちに保障することは難しい。技術的に難しいという場合もあるし、財政的に困難ということもある。テレビ放送の字幕を例にとれば、生中継などは、字幕の作成が困難として、2007年までの字幕化の対象とはなっていない。
いずれにせよ、この社会にあって、本来実現されるべきことであっても、優先順位を付けて取り組まざるを得ないことは多い。何十年も前に建造され、現在の耐震基準を満たさない建物であっても、直ちに使用中止とされたり取り壊されたりするわけではなく、一定の猶予期間のうちに耐震工事がなされるように義務づけられるにとどまっている。もっと言えば、「人命は地球より重い」と言いながら、交通事故で年間数千人が死亡するという事態は何十年も完全には解決されないままだ。そこには、現在の社会のあり方を前提として、優先順位を付けて取り組むという対応がある。社会的に「そうすべきだ」という強い合意ができないものは、後回しにされてしまう。
テレビ放送の完全字幕化などは、すでに技術的な問題は解決可能な状況にあるから、最後は予算の問題だと言って良いだろう。中途失聴・難聴者の運動が力強いものになって初めて、完全字幕化は、この社会での優先順位が上がることになる。
では、「聞こえの保障」の全体ではどう考えたらよいのだろうか。本来は、そのすべてが早期に保障されるべきものであるとしても、現実には優先順位を付けざるを得ない。とすれば、「聞こえの保障」の全領域のなかで、優先されるべきは「情報保障」の部分だろう。なぜなら、それは、聴覚障害者が、自ら判断し自らの行動の意志決定するために必要な情報を保障することだからだ。ここが支えられなければ、聴覚障害者は自ら判断し、自らの行動の意志決定を十全に行なうことが困難になる。いくらスポーツ中継や落語番組に字幕を付けたところで、聴覚障害者の判断や、その行動の意志決定を支えることはできない。逆に言えば、情報保障があれば、聴覚障害者は自らの行動の意志決定を行ない、それこそ、テレビ放送の完全字幕化の運動に立ち上がることもできるのだ。
これが、手話通訳や要約筆記が、第二種社会福祉事業として位置づけられている(社会福祉法第2条第3項第5号)理由であり、聴覚障害者のコミュニケーション支援事業が、市町村の必須事業とされている(障害者自立支援法第77条第1項第2号)理由だと私は思う。スポーツや文化の享受がないがしろにされて良い訳ではない。しかし、現在の日本の社会は、そこに優先順位を付け、「情報保障」を含む「コミュニケーション支援」については、規制と助成を通じて(社会福祉事業)、必ず実現すべきものとして(必須事業)、法律に規定したということができる。
では、「聞こえの保障」のうち、「情報保障」以外の部分、もっと広く言えば「コミュニケーション支援」以外の部分は、どのように扱われているのだろうか。この点は、また別にまとめることにしよう。
「情報」という言葉は便利なので気軽に使うが、よく考えるとなかなか定義することが難しい。人間が五感で感じるもの(知覚や感覚)であっても、広く「情報」と呼べないことはない。しかし、「情報保障」という場合の「情報」は、人の判断や行動の意志決定をするために役立つものを意味している。では、人の判断や行動の意志決定をするにめに役立つものがすべて「情報」かというと、必ずしもそうは言えない。「情報」とは、人の判断や行動の意志決定をするにめに役立つもののうち、その場でもたらされ、その場で必要になるものを意味していることが多い。時間が経てば、判断や行動の意志決定に役立たなくなることも多いからだ。台風で大雨が降り、河川が決壊しそうだというとき、自宅近くの川の水位や地域の降雨量などは重要な情報になる。避難するかどうかの判断の材料になるからだ。しかし、数日前のその川の水位や、あるいは今日の水位であっても遠く離れた河川の水位は、情報としてはあまり意味を持たない。この場での自らの判断や行動の意志決定のために使えないからだ。
では時間に関係なく、いつでも役に立つというものはないのだろうか。もちろんある。通常そうしたものは「知識」と呼ばれるのではないだろうか。「この辺りは去年の台風でも水に浸かった」という知識があり、「今日の降雨量は、去年の台風並」という情報が入ってきて、「では、早めに避難所に避難しよう」という判断が生まれる。避難所の場所も、広域避難所として予め知らされている場合は「知識」として役立つし、町内会の組長さんが「今日は○○に避難して」と教えにきてくれれば、「貴重な情報をありがとう」ということになる。
まとめると、「情報」とは、人の判断や行動の意志決定に役立つものであり、その場でもたらされ、その場で役立つもの、ということができる。
こう考えれば、「情報保障」とは、人が判断したり行動の意志決定をしたりするために、その場でもたらされるべきものを保障すること、を意味していることが分かる。ちなみに「保障」とは、本来あるべきものが守られている状態を指している。これが一度失われたものをつぐなうという意味の「補償」との差異だ(したがって、「安全保障条約」は安全な状態を守るためであり、「戦時補償」は戦時の損失を補うため、と理解できる)。
「聞こえの保障」は、聞こえることすべてを、本来あるように守りたいという意味になる。聞こえることすべてが「情報」として、人の判断や行動の意志決定のために用いられる訳ではない。私たちは、音楽も聴くし落語も楽しむ。それらは、私たちの聞こえの世界を形作ってはいるが、通常は「情報」としては扱われていない。したがって、聴覚障害者にとって聞こえの保障を求めるとは、「情報」も「情報でないもの」も等しく、つまり音声として聞こえているものを、聞こえる人が感じ、理解できるように、同じように感じ、理解したい、という要求だと言うことだ。その要求は、基本的人権の上に立つものであり、人として当然のものだということができる。しかし、現実には、すべてを直ちに保障することは難しい。技術的に難しいという場合もあるし、財政的に困難ということもある。テレビ放送の字幕を例にとれば、生中継などは、字幕の作成が困難として、2007年までの字幕化の対象とはなっていない。
いずれにせよ、この社会にあって、本来実現されるべきことであっても、優先順位を付けて取り組まざるを得ないことは多い。何十年も前に建造され、現在の耐震基準を満たさない建物であっても、直ちに使用中止とされたり取り壊されたりするわけではなく、一定の猶予期間のうちに耐震工事がなされるように義務づけられるにとどまっている。もっと言えば、「人命は地球より重い」と言いながら、交通事故で年間数千人が死亡するという事態は何十年も完全には解決されないままだ。そこには、現在の社会のあり方を前提として、優先順位を付けて取り組むという対応がある。社会的に「そうすべきだ」という強い合意ができないものは、後回しにされてしまう。
テレビ放送の完全字幕化などは、すでに技術的な問題は解決可能な状況にあるから、最後は予算の問題だと言って良いだろう。中途失聴・難聴者の運動が力強いものになって初めて、完全字幕化は、この社会での優先順位が上がることになる。
では、「聞こえの保障」の全体ではどう考えたらよいのだろうか。本来は、そのすべてが早期に保障されるべきものであるとしても、現実には優先順位を付けざるを得ない。とすれば、「聞こえの保障」の全領域のなかで、優先されるべきは「情報保障」の部分だろう。なぜなら、それは、聴覚障害者が、自ら判断し自らの行動の意志決定するために必要な情報を保障することだからだ。ここが支えられなければ、聴覚障害者は自ら判断し、自らの行動の意志決定を十全に行なうことが困難になる。いくらスポーツ中継や落語番組に字幕を付けたところで、聴覚障害者の判断や、その行動の意志決定を支えることはできない。逆に言えば、情報保障があれば、聴覚障害者は自らの行動の意志決定を行ない、それこそ、テレビ放送の完全字幕化の運動に立ち上がることもできるのだ。
これが、手話通訳や要約筆記が、第二種社会福祉事業として位置づけられている(社会福祉法第2条第3項第5号)理由であり、聴覚障害者のコミュニケーション支援事業が、市町村の必須事業とされている(障害者自立支援法第77条第1項第2号)理由だと私は思う。スポーツや文化の享受がないがしろにされて良い訳ではない。しかし、現在の日本の社会は、そこに優先順位を付け、「情報保障」を含む「コミュニケーション支援」については、規制と助成を通じて(社会福祉事業)、必ず実現すべきものとして(必須事業)、法律に規定したということができる。
では、「聞こえの保障」のうち、「情報保障」以外の部分、もっと広く言えば「コミュニケーション支援」以外の部分は、どのように扱われているのだろうか。この点は、また別にまとめることにしよう。