2007年10月29日

洋画の字幕と「要約」

 名古屋で要約筆記者養成講座が始まっている(9月5日から)。その講座の中で、先日「日本語の特徴」について教えた。教えるために、日本語と要約筆記の関係をあれこれ検討していて、気づいたことをいくつか。
 一つは、これは従来から言ってきたことだが、他人の話を伝達するためには、まずその話を理解することがどうしても必要になる、そして単に理解しただけではまだ伝達にはならず、それを要約筆記者が表現して、初めて伝達行為が完了する、という点に関連している。前者、つまり他人の話を理解するためには消極的知識が必要になる。これは理解するための知識。例えば漢字が読める、言葉の意味が分かる、という知識だ。これに対して後者、つまり理解したものを表現するためには積極的知識が必要になる。これは漢字を例にとれば、要する書けるということ、言葉の意味が分かるだけでなく使える語彙がたくさんあることだ。人の話を伝達するためには、この積極的知識がどうしても必要になる。知識を、「消極的知識」と「積極的知識」に分けるのは、ロシア語通訳者の米原万里さんの著作から私は学んだ。要約筆記者は、通常日本語を母語として育った人だから、消極的知識は十分に持っている。しかし、日本語を母語としている人でも、積極的知識は、意図的に学習しないとなかなか身につかない。これが、要約筆記者が日本語を学ばなければならない第1の理由だ、と講座では話した。
 気づいたことの2番目は、要約筆記は第1言語(話しことば)から第2言語(書きことば)に向けて通訳されるということに関連している。その場の情報保障として用いられる要約筆記は通訳行為だと私は思っているが、一般の通訳、要するに異言語間の通訳の場合、通訳者は通常、通訳される対象となっている言語を母語としている人ではなく、通訳されてくる側の言語を母語としている人が行なう。翻訳の方がこの関係はわかりやすいから、翻訳を例にとるが、サリンジャーの英文(第1言語)を日本語(第2言語)に訳すのは日本人(例えば村上春樹氏)だし、源氏物語(日本語=第1言語)を英語(第2言語)に訳すのは、日本人ではなくアメリカ人、例えばサイデンステッカー氏だ。これは最初に挙げた「積極的知識」に関連している。つまり表現するためには積極的知識が豊富であることが要求されるから、通訳(翻訳)される二つの言語のうち、通訳(翻訳)されてくる側の言語(英→日翻訳なら日本語)を母語としている人が担当することになる訳だ。ところが、要約筆記の場合は、通訳されてくる側、つまり書きことばの方が話しことばより得意だという人は少ない。つまり要約筆記者は、通常の異言語間通訳と比べると不利な通訳を強いられている、ということになる。この点からも、要約筆記者を目指す人は、書きことばとしての日本語を学び、書きことばを強化しておかなければならない、ということになる、と話した。
 気づいた3番目の内容は、通訳や翻訳においては、「要約」という概念は用いられていないのではないか、ということだ。私たち要約筆記者は、「要約」という言葉を当たり前のよう使う。しかしよく考えてみると、「速く、正しく、読みやすく」という要約筆記の三原則に「要約」という言葉は含まれていない。他方、異言語間の通訳を考えると、そこではどうも「要約」はされていないようなのだ。映画の字幕では、英語の話しことばから日本語の書きことばに向けて翻訳されるが、そこで「要約」をしているという人はいない。仮に話しことばから書きことばへという形で通訳が行なわれる場合に「要約」が必須だというのであれば、英語→日本語であっても、日本語→日本語であっても、そのこと自体は変わりはないはずだ。しかし、前者において、「要約」という意識は見られないし、受け取る我々(例えば、洋画を字幕で楽しむ視聴者)も、そこで行なわれていることが「要約」だとは感じていない、ということだ。
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 上記の3つの気づきのうち、3番目の話は、「日本語の特徴」とは直接は関係がなかったので、講座では全く触れなかったが、要約筆記という行為の本質を考える上では、かなり重要な示唆ではないかと感じた。そこで以下に少し敷衍してみたい。
 日本語字幕の制作者として著名であった清水氏は、ある映画(確か「旅情」)の字幕にふれて、原語にあった「ステーキが食べたくても、ペパロニを出されたらペパロニを食べなさい」という意味の台詞の字幕について悩み、「スパゲティを出されたら、スパゲティを食べなさい」という台詞に訳したという話を書いている。当時(「旅情」の制作は1955年)の日本でのイタリア料理の普及状況を考えると「ペパロニ」では通じない、と考えたからだ。ここで起きていることは、見かけ上は「言い替え」と呼ばれるものだが、実質は、映画鑑賞者(つまり我々)に制作者の意図を伝えるための「通訳(翻訳)行為」だと言えるのではないか。言い換えだけではない。映画の原語に存在する台詞であって字幕化されていない言葉というものも少なくない。しかし、面白いことに、その省略を「要約」ととらえている字幕制作者はどうもいないようなのだ。
 整理すると、洋画の世界では、映画の中の台詞(話しことば)を字幕(書きことば)にしており、そこでは話しことばの逐語訳など行なわれていない。字幕制作者は、映画制作者の意図を映画鑑賞者に伝えるために、省略や言い換えなどを駆使しているが、そのことを「要約」とはとらえていない。字幕制作者は、その行為をおそらく「翻訳の一種」としてとらえているらしい、ということになる。
 映画字幕の翻訳の場合、目指されているものは、次のような行為だと思う。
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 日本語以外の言語の話しことばにより表現された「内容+表現」
     ↓(時間をかけて作業可能)
 「内容+表現」を、日本語の書きことばにより表現
  (文字数の制約あり)
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 これに対して、要約筆記の場合、行なわれているのは(あるいは目指されているのは)、次の行為ではないか。
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 日本語の話しことばにより表現された「内容+表現」
    ↓(その場での作業)
 「内容」を中心に、日本語の書きことばにより表現
  (文字数の制約あり)
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 という関係になる。映画の字幕では、字幕の制作者は、字幕の言語を母語とする人であるのに対して、要約筆記では、書き手は、広い意味では日本語を母語としているものの、書きことばを母語としている訳ではないことを考えると、要約筆記は、やはり相当困難な作業だといえるだろう。私たちは、「日本語の書きことば」を母語として使いこなせるように、相当の研鑽を積まなければならない。


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TAKA
コミックから評論、小説まで、本の体裁をしていれば何でも読む。読むことは喜びだ。3年前に手にした「美術館三昧」(藤森照信)や「個人美術館への旅」を手がかりに、最近は美術館巡りという楽しみが増えた。 大学卒業後、友人に誘われるままに始めた「要約筆記」との付き合いも30年を超えた。聴覚障害者のために、人の話を聞いて書き伝える、あるいは日本映画などに、聞こえない人のための日本語字幕を作る。そんな活動に、マッキントッシュを活用してきた。この美しいパソコンも、初代から数えて現在8代目。iMacの次はMAC mini+LEDディスプレイになった。       下出隆史
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