2007年09月12日

平田オリザ「対話のレッスン」小学館

 平田オリザの書いたものを、時々読んでいる。東京現代美術館で、彼らの「東京ノート」を見たのはもう5年ほど前になる。そこには見慣れない「劇的なるもの」があった。それまで、私にとっての劇的なるものは、例えば仙台広瀬川河畔の西公園で経験した唐十郎のテント興行、早稲田小劇場が利賀の合掌造りの舞台で見せたオセロ、佐藤信の演出で結城座で見た人形芝居・マクベス、などだった。
 「東京ノート」は、それらの演劇とは全く違う。全く違うけれど、舞台(東京現代美術館ロビー)での会話には、独特の緊張感があった。「対話のレッスン」を読んでいて、何度かあの「東京ノート」の登場人物の会話を思い出した。この本の中で、平田オリザは、現代における対話の重要性を繰り返し説いている。著者は、「対話」を「会話」との対比を通して次のように定義する。「『会話』が、お互いの細かい事情や来歴を知った者同士のさらなる合意形成に重きを置くのに対して、「対話」は、異なる価値観のすり合わせ、差違から出発するコミュニケーションの回復に重点を置く」と。なるほど、演劇は確かに対話を重要な要素としている。互いに対立する価値観や利害関係を持った登場人物が交わす会話が、演劇の推進力になる。
 今日、2007年9月12日、安倍首相が辞意を表明したが、所信表明演説をすませた首相が、代表質問の前に辞めてしまう、というのは、対話の放棄だろう。価値観の違う者が、いくら演説をしあっても、そこから価値観のすり合わせは生まれない。このブログでも何度か取り上げている要約筆記に関する混迷を巡って、最近、全国要約筆記問題研究会が毎月発行している「全要研ニュース」誌上で、二つの立場からの投稿が続いているが、それは「対話」になっているだろうか。演説でもディベートでもなく、「対話」すること、異なる価値観のすりあわせを、両者の立場の差違から始めること、それが求められている。今年、全要研は、10年続いた「全国要約筆記研究討論集会」の非開催を決めているが、いっそ公開討論会を開いてはどうか。いや、違った。「公開対話集会」を開いてはどうか。  

Posted by TAKA at 23:29Comments(2)TrackBack(0)読書
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TAKA
コミックから評論、小説まで、本の体裁をしていれば何でも読む。読むことは喜びだ。3年前に手にした「美術館三昧」(藤森照信)や「個人美術館への旅」を手がかりに、最近は美術館巡りという楽しみが増えた。 大学卒業後、友人に誘われるままに始めた「要約筆記」との付き合いも30年を超えた。聴覚障害者のために、人の話を聞いて書き伝える、あるいは日本映画などに、聞こえない人のための日本語字幕を作る。そんな活動に、マッキントッシュを活用してきた。この美しいパソコンも、初代から数えて現在8代目。iMacの次はMAC mini+LEDディスプレイになった。       下出隆史
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