2007年09月28日
浅田次郎「憑神」(新潮文庫)
浅田次郎の時代小説を初めて読んだ。残念ながらこれはちょっといただけない。浅田次郎という人はなにを書かせてもおもしろく書く。それは知っている。しかし時代小説はいけない。どうしてだろうかと考えた。思ったのは、こういうことである。
時代小説は窮屈な小説である。現代とは様々なものが切れている。もちろんつながっているものもあるが、切れているものは少なくない。まず言葉の一部が切れている。もはや誰も江戸時代の助動詞は使っていない。政治の仕組みも違う、人々の価値観も違う。その制約の中で書くのが時代小説というものだ。藤沢周平の小説を読むとそのことがわかる。時代小説は、いわば設計図を渡されて筺(はこ)をつくる作業に似ている。筺の材料も寸法も、時には外見の装飾さえ決まっている。勝手につくる訳にはいかないのだ。筺の使い道や細かな細工の意味は、現代からみればよくわからない。よくわからないが、勝手に変えたのでは時代小説ではなくなってしまう。そういう制約を背負っているのが時代小説なんだと私は思ってきた。
設計図を渡されて寸法通りに作っているのに、作り手の個性がそこに宿ってくる。それどころか正確に作られた時代小説という筺には、今に生きている私たちが理解でき、隣人のように感じる人間が住まうのだ。筺が強固に作られていればいるほど、筺に宿った小説も力強い。それが時代小説のおもしろさだと思う。譜面通りに弾くという作業の果てに、演奏者だけのバッハが聞こえてくると、生涯パイプオルガンを学び続けた森有正は語っていたではないか。それと同じだ。
「憑神」は決してつまらない小説ではない。物語は奇想天外、次々と趣向をこらして物語は進む。正義感も人情も、当意即妙のやりとりもそこにはある。が、ただ一つ時代小説を時代小説にしているものがない。おそらく著者・浅田次郎は、才能がありすぎるのだ。時代小説として評価されることも著者の望むところではないかも知れない。この小説を時代小説という枠組みで評価しても始まらないともいえる。小説のテーマはおそらく、「死ぬ運命にある」というただ一点で神よりも輝くことができる存在としての人間を描く、というところにあるのだろう。幕末という時代背景を借りてそのテーマを描こうとした著者の試みは成功しているのだろうか。残念ながら私の感想は否定的だ。テーマとして不足はない、が、このテーマを描くのであれば、筺はもっと強固な筺、細部までしっかりと設計された筺でなければならない。著者の自在な筆の運びが、筺を膨らませたりへこませたりする。それでは、このテーマは本当の意味で生きてこないのだろう。
あの藤沢周平でさえ、完成稿とならないまま中断され、遺稿として刊行された「漆の実の実る国」では、筺はがたがたで、小説はついに立ち上がらないままだ。推敲に推敲を重ねるといわれた藤沢周平は、時代小説が強い筺を必要とすることを知っていたのだ。藤沢周平が亡くなってはや十年。「時代小説」と呼べる作品の新たな書き手はもう現われないのだろうか。
時代小説は窮屈な小説である。現代とは様々なものが切れている。もちろんつながっているものもあるが、切れているものは少なくない。まず言葉の一部が切れている。もはや誰も江戸時代の助動詞は使っていない。政治の仕組みも違う、人々の価値観も違う。その制約の中で書くのが時代小説というものだ。藤沢周平の小説を読むとそのことがわかる。時代小説は、いわば設計図を渡されて筺(はこ)をつくる作業に似ている。筺の材料も寸法も、時には外見の装飾さえ決まっている。勝手につくる訳にはいかないのだ。筺の使い道や細かな細工の意味は、現代からみればよくわからない。よくわからないが、勝手に変えたのでは時代小説ではなくなってしまう。そういう制約を背負っているのが時代小説なんだと私は思ってきた。
設計図を渡されて寸法通りに作っているのに、作り手の個性がそこに宿ってくる。それどころか正確に作られた時代小説という筺には、今に生きている私たちが理解でき、隣人のように感じる人間が住まうのだ。筺が強固に作られていればいるほど、筺に宿った小説も力強い。それが時代小説のおもしろさだと思う。譜面通りに弾くという作業の果てに、演奏者だけのバッハが聞こえてくると、生涯パイプオルガンを学び続けた森有正は語っていたではないか。それと同じだ。
「憑神」は決してつまらない小説ではない。物語は奇想天外、次々と趣向をこらして物語は進む。正義感も人情も、当意即妙のやりとりもそこにはある。が、ただ一つ時代小説を時代小説にしているものがない。おそらく著者・浅田次郎は、才能がありすぎるのだ。時代小説として評価されることも著者の望むところではないかも知れない。この小説を時代小説という枠組みで評価しても始まらないともいえる。小説のテーマはおそらく、「死ぬ運命にある」というただ一点で神よりも輝くことができる存在としての人間を描く、というところにあるのだろう。幕末という時代背景を借りてそのテーマを描こうとした著者の試みは成功しているのだろうか。残念ながら私の感想は否定的だ。テーマとして不足はない、が、このテーマを描くのであれば、筺はもっと強固な筺、細部までしっかりと設計された筺でなければならない。著者の自在な筆の運びが、筺を膨らませたりへこませたりする。それでは、このテーマは本当の意味で生きてこないのだろう。
あの藤沢周平でさえ、完成稿とならないまま中断され、遺稿として刊行された「漆の実の実る国」では、筺はがたがたで、小説はついに立ち上がらないままだ。推敲に推敲を重ねるといわれた藤沢周平は、時代小説が強い筺を必要とすることを知っていたのだ。藤沢周平が亡くなってはや十年。「時代小説」と呼べる作品の新たな書き手はもう現われないのだろうか。