2007年09月25日
「通訳」行為と要約筆記者
聞こえない人のためのその場の情報保障ということを明確にするために、「通訳としての要約筆記」という言い方をするのだが、この「通訳」という言葉について、様々な誤解がある。その誤解の一つに、通訳が要約筆記者の理解を通じて行なわれる、ということに対して、それでは要約筆記を利用する人は、要約筆記者の理解を聞かされることになってしまう、というものがある。
人が、他人の話を媒介する場合、理解なしには、伝達行為そのものが成り立たないことはおそらく了解されている。しかし、その要約筆記者の理解というものが、なにかその要約筆記者個人の理解、というものだと誤解されているらしい。もちろんある意味でそれは要約筆記者個人の理解なのだといえる。そう言うと、要約筆記による通訳では、例えば十人の要約筆記者がいて、要約筆記をすると、十通りの理解があり、十通りの要約筆記者の意見に彩られた筆記が画面に現われる、というふうに受け取るのだろうか。
私は全くそうは思っていない。訓練していない人がメモを取る、という場合は、確かにそれに近いことが起きるだろう。要約筆記者が何十時間、あるいは百時間を越える講座を受講し、訓練を受けるということは、十人の要約筆記者が同じように書く、言葉のいくつかは異なるとしても、意味全体では同じ内容を通訳できるようになるためなのだ。それが要約筆記が誰にでもできるわけではない、という意味で、要約筆記には高い専門性がある、といわれる理由だ。
「速く書く 講義・講演筆記の技法」(斉藤喜門著、蒼丘書林、1987年)という本によれば、中学生に一年間添削指導をしたら、書き取る内容がほとんど同じになったという。著者は、授業のノート録りを中学生に指導する実験をしたという。最初は、全くバラバラだった40人の中学生のノートの内容が、一年間、添削指導をし続けると、一年後には見事に一致したという。これが訓練ということなのだ。
ある人が何かを伝えようとして話をする、文章を書く。その順序は、「言いたい何か」がまず先にあり、その後で言葉が選ばれる。あるいは話しながら、書きながら、言いたい何かがはっきりしてくる。その言いたいこと、伝えたいことを、話し手なり、書き手が選択した言葉を通して、受け取った人が理解する。訓練された要約筆記者による理解は、受け取った要約筆記者の意見ではなく、話し手が意図した「伝えたいこと」の理解そのものになる、そういうもの目指しているのだ。実際、いわゆる上手い要約筆記者を集めてデモテープを使って筆記してもらうと、その要約筆記は驚くほど似ている。個々の要約筆記者は確かにそれぞれの意見を持っているだろう。しかし要約筆記の作業とは、そうした要約筆記者の持っている意見とは何の関係もないもの、個々の要約筆記者の個性や違いを越えて、客観的に話し手の意図を再現するものを目指しているのだ。
では、どうすればそうした理解、理解に基づく筆記が可能になるのか。2005年に全難聴により実施された「要約筆記通訳者養成等に関する調査研究事業」で検討され提案された「要約筆記者」の到達目標とカリキュラムをみてほしい。それまでの「要約筆記奉仕員」の到達目標が「聴覚障害(および聴覚障害者)の理解」と「要約筆記の技術および知識」の二つに括られるのに対して、「要約筆記者」の到達目標は5つある。その到達目標に至るためのカリキュラムの内容もかなりのボリュームになっている。それは、要約筆記者に幅広い知識を身につけてもらい、より客観性の高い要約筆記を実現するためだと言っていいだろう。全難聴の上記事業で提案された「要約筆記者の到達目標」を掲げておく(全難聴のホームページになぜか到達目標それ自体は見あたらない。掲載して欲しいな)。
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要約筆記通訳者の5つの到達目標
・社会福祉の理念を理解していること
・「通訳」という行為に対する自覚的な理解をしていること
・要約筆記技術をもって通訳作業を実践できること
・対人支援に関わる者としての自己育成ができること
・聴覚障害者の権利擁護の観点から通訳できること
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社会福祉の理念を理解し、自らの行為(通訳としての要約筆記による支援行為)に対して自覚な理解をする、あるいは対人支援の観点から自己育成ができる、そういう要約筆記者とは、単に聞こえない人が困っているからなんとしたい、せめて少しでも情報を手渡したいとペンを握るという人のことではない。人が何かを伝えたいと考えて言葉を選択する、言葉を組み立てて伝えようとする、その行為がどのようになされるか、というところまで遡って学んでいる人、使われている日本語がどのような言語であり、どのような特徴を持っているのか、だから表現はこのようになされ、それを伝えるためにはどのような言葉の選択と組立が必要になるかを知っている人。障害者への支援とは、障害者の権利擁護のためであり、その権利擁護がこの国ではどのような制度的枠組みで行なわれているかを理解している人、そして障害者一人一人を支援することの意味、支援に関わる要約筆記者のあり方について自省と向上の気持ちを持ち続けられる人。そういう人を目指して、「要約筆記者」を定義しようとしたのが、要約筆記者の到達目標であり、その養成カリキュラムだと思っている。
それは高い理想かも知れない。しかし高い理想を掲げない運動に実りは小さい。私たち、「要約筆記者」を目指す者は、要約筆記が、自分たちの理解に基づいて行なわれることを知っている。だからこそ、その自分の理解が、より客観的で、共通の理解に近づくように研鑽を惜しまない。その力が一定のレベルに達しないのであれば、いくら中途失聴・難聴者に対する暖かい心があったとしても、通訳行為に関わってはいけない。そのためには、公的な支援に携わる要約筆記者であれば、認定試験はさけて通れないだろう。「要約筆記奉仕員」という存在が不要な訳ではない。中途失聴・難聴者の社会参加を促進する支援という点から、たくさんの要約筆記奉仕員が育つことは必要だ。しかし、「奉仕員」という枠組みは、支援しようとする気持ちを大切にし、身につけた技術でそれなりの支援をする人なのだ。認定試験は、奉仕員にはなじまない。
いずれ、話し手のことばをそのまま伝える技術が作られるかも知れない。その前に、音声を、より自然に聴神経の信号に変換して、聞こえるようにする医療が実現するかも知れない。それはもちろん望ましいことだ。早くそうなってほしい。しかし今現在、全文を伝える技術も完全な人工内耳もないのだから、誰かが、他人の言葉を、いや、言いたいこと(意図)を伝達しなければならない。最も小規模な機材でそれを可能にする手書き要約筆記の果たすべき仕事は、まだまだ大きいと私は思う。それが、2年の訓練期間を想定した「要約筆記者」の養成が早く始められなければならないと考える理由だ。
人が、他人の話を媒介する場合、理解なしには、伝達行為そのものが成り立たないことはおそらく了解されている。しかし、その要約筆記者の理解というものが、なにかその要約筆記者個人の理解、というものだと誤解されているらしい。もちろんある意味でそれは要約筆記者個人の理解なのだといえる。そう言うと、要約筆記による通訳では、例えば十人の要約筆記者がいて、要約筆記をすると、十通りの理解があり、十通りの要約筆記者の意見に彩られた筆記が画面に現われる、というふうに受け取るのだろうか。
私は全くそうは思っていない。訓練していない人がメモを取る、という場合は、確かにそれに近いことが起きるだろう。要約筆記者が何十時間、あるいは百時間を越える講座を受講し、訓練を受けるということは、十人の要約筆記者が同じように書く、言葉のいくつかは異なるとしても、意味全体では同じ内容を通訳できるようになるためなのだ。それが要約筆記が誰にでもできるわけではない、という意味で、要約筆記には高い専門性がある、といわれる理由だ。
「速く書く 講義・講演筆記の技法」(斉藤喜門著、蒼丘書林、1987年)という本によれば、中学生に一年間添削指導をしたら、書き取る内容がほとんど同じになったという。著者は、授業のノート録りを中学生に指導する実験をしたという。最初は、全くバラバラだった40人の中学生のノートの内容が、一年間、添削指導をし続けると、一年後には見事に一致したという。これが訓練ということなのだ。
ある人が何かを伝えようとして話をする、文章を書く。その順序は、「言いたい何か」がまず先にあり、その後で言葉が選ばれる。あるいは話しながら、書きながら、言いたい何かがはっきりしてくる。その言いたいこと、伝えたいことを、話し手なり、書き手が選択した言葉を通して、受け取った人が理解する。訓練された要約筆記者による理解は、受け取った要約筆記者の意見ではなく、話し手が意図した「伝えたいこと」の理解そのものになる、そういうもの目指しているのだ。実際、いわゆる上手い要約筆記者を集めてデモテープを使って筆記してもらうと、その要約筆記は驚くほど似ている。個々の要約筆記者は確かにそれぞれの意見を持っているだろう。しかし要約筆記の作業とは、そうした要約筆記者の持っている意見とは何の関係もないもの、個々の要約筆記者の個性や違いを越えて、客観的に話し手の意図を再現するものを目指しているのだ。
では、どうすればそうした理解、理解に基づく筆記が可能になるのか。2005年に全難聴により実施された「要約筆記通訳者養成等に関する調査研究事業」で検討され提案された「要約筆記者」の到達目標とカリキュラムをみてほしい。それまでの「要約筆記奉仕員」の到達目標が「聴覚障害(および聴覚障害者)の理解」と「要約筆記の技術および知識」の二つに括られるのに対して、「要約筆記者」の到達目標は5つある。その到達目標に至るためのカリキュラムの内容もかなりのボリュームになっている。それは、要約筆記者に幅広い知識を身につけてもらい、より客観性の高い要約筆記を実現するためだと言っていいだろう。全難聴の上記事業で提案された「要約筆記者の到達目標」を掲げておく(全難聴のホームページになぜか到達目標それ自体は見あたらない。掲載して欲しいな)。
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要約筆記通訳者の5つの到達目標
・社会福祉の理念を理解していること
・「通訳」という行為に対する自覚的な理解をしていること
・要約筆記技術をもって通訳作業を実践できること
・対人支援に関わる者としての自己育成ができること
・聴覚障害者の権利擁護の観点から通訳できること
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社会福祉の理念を理解し、自らの行為(通訳としての要約筆記による支援行為)に対して自覚な理解をする、あるいは対人支援の観点から自己育成ができる、そういう要約筆記者とは、単に聞こえない人が困っているからなんとしたい、せめて少しでも情報を手渡したいとペンを握るという人のことではない。人が何かを伝えたいと考えて言葉を選択する、言葉を組み立てて伝えようとする、その行為がどのようになされるか、というところまで遡って学んでいる人、使われている日本語がどのような言語であり、どのような特徴を持っているのか、だから表現はこのようになされ、それを伝えるためにはどのような言葉の選択と組立が必要になるかを知っている人。障害者への支援とは、障害者の権利擁護のためであり、その権利擁護がこの国ではどのような制度的枠組みで行なわれているかを理解している人、そして障害者一人一人を支援することの意味、支援に関わる要約筆記者のあり方について自省と向上の気持ちを持ち続けられる人。そういう人を目指して、「要約筆記者」を定義しようとしたのが、要約筆記者の到達目標であり、その養成カリキュラムだと思っている。
それは高い理想かも知れない。しかし高い理想を掲げない運動に実りは小さい。私たち、「要約筆記者」を目指す者は、要約筆記が、自分たちの理解に基づいて行なわれることを知っている。だからこそ、その自分の理解が、より客観的で、共通の理解に近づくように研鑽を惜しまない。その力が一定のレベルに達しないのであれば、いくら中途失聴・難聴者に対する暖かい心があったとしても、通訳行為に関わってはいけない。そのためには、公的な支援に携わる要約筆記者であれば、認定試験はさけて通れないだろう。「要約筆記奉仕員」という存在が不要な訳ではない。中途失聴・難聴者の社会参加を促進する支援という点から、たくさんの要約筆記奉仕員が育つことは必要だ。しかし、「奉仕員」という枠組みは、支援しようとする気持ちを大切にし、身につけた技術でそれなりの支援をする人なのだ。認定試験は、奉仕員にはなじまない。
いずれ、話し手のことばをそのまま伝える技術が作られるかも知れない。その前に、音声を、より自然に聴神経の信号に変換して、聞こえるようにする医療が実現するかも知れない。それはもちろん望ましいことだ。早くそうなってほしい。しかし今現在、全文を伝える技術も完全な人工内耳もないのだから、誰かが、他人の言葉を、いや、言いたいこと(意図)を伝達しなければならない。最も小規模な機材でそれを可能にする手書き要約筆記の果たすべき仕事は、まだまだ大きいと私は思う。それが、2年の訓練期間を想定した「要約筆記者」の養成が早く始められなければならないと考える理由だ。