2009年08月01日

全要研集会第1分科会−15

 ということは現状がどうなっているかというと、現在の要約筆記事業は、障害者の社会参加の促進を目的として養成された要約筆記奉仕員を、コミュニケーション支援を目的として派遣している、ということになります。要約筆記奉仕員の養成目的と、要約筆記者の派遣目的とは一致していないのです。



 参考のために手話通訳事業について見ておきましょう。もちろん手話と要約筆記が同じでなければならないということはありませんが、要約筆記は、第二種社会福祉事業である手話通訳事業に含まれていますから、基本的には両者は同じ位置づけだろうと思います。
 そうすると、手話については、別記9に、「手話通訳者養成事業」が書かれていて、手話通訳者の養成が規定されています。その養成の目的は、手話を用いたコミュニケーション支援のためであり、派遣の目的と一致しています。
 ということは、同様に、別記9に、要約筆記者の養成が規定されれば、要約筆記者の養成目的と派遣の目的は合致するはずです。



 以上、自立支援法の中の規定というか、地域生活支援事業の実施要綱を見てきましたが、ここまでの仕組みを、前に見た社会啓発の事業と重ねてみたのが、次の図です。

 先に、要約筆記をする人の養成と、社会啓発の取り組みを分離した方が良いのではないか。その方が社会啓発の取り組みを広げ、社会普及できるのではないか、ということを話しました。この要約筆記する人の養成は、要約筆記者養成として、別記9に、手話通訳者の養成と並べて規定されるべきものだと思います。
 そうすると、この社会啓発の活動として、要約筆記奉仕員の養成が使えるのではないでしょうか。要約筆記奉仕員の養成は、市町村でも(別記6)、都道府県でも(別記10)、できるわけですから。
  

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2009年07月27日

全要研集会第1分科会−14

 ここまで見てきたように、障害者自立支援法には、要約筆記について、派遣と養成の規定があるということです。では、これらの規定についてもう少し詳しく見てみましょう。
 まず要約筆記者の派遣ですが、これは、自立支援法第77条第2項の規定からきていて、要約筆記者の派遣はコミュニケーションを支援、つまり意思疎通の円滑化を目的とする、とされています。

 では、養成ですが、こちらは、要綱の別記6、10を見ると、要約筆記奉仕員の養成は、スポーツや芸術を通した障害者の社会参加の促進を目的とすると書いてあります。注意していただきたいのは、要約筆記者の養成については、現状ではどこにも規定されていない、ということです。別記2には、要約筆記者の派遣という規定があり、これは市町村の必須事業とされていますが、この事業については、派遣される要約筆記者として、「要約筆記奉仕員」が掲載されています。そして要約筆記奉仕員の養成については、別記6、10に規定がある、しかし要約筆記者の養成については規定がありません。


  

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2009年07月16日

全要研集会第1分科会から−13

 では、こうした社会啓発の活動は、どのようにして進めたら良いのでしょうか。もちろん社会啓発はボランティア活動によっても進めることができます。しかし、やはり何らかの制度がないと広く普及することは難しいでしょう。社会啓発の活動をしようとすればそれなりに費用が掛かります。継続的に実施することも大切でしょう。そうすると、何か社会啓発の活動を支える制度が必要になります。聞こえない人、聞こえにくい人への理解を広げていくような啓発活動を継続的に実施していくためには、その根拠というか、よりどころを、どの制度に求めたら良いのでしょうか。



 現在、障害者施策は「障害者自立支援法」に集約されています。身体障害者基本法とか、要約筆記を含む手話通訳事業を第二種社会福祉事業に位置づけた社会福祉法など、様々な法律がありますが、それらを集約した形で、自立支援法があります。そこで、この障害者自立支援法の仕組みを検討してみましょう。
 そうすると、この自立支援法の中には、要約筆記関連して、「要約筆記者の派遣」と「要約筆記奉仕員の養成」という二つの仕組みがあることが分かります。これらは法律の中に直接書いてある訳ではありませんが、障害者自立支援法の中で、これらの仕組みが用意されています。
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 まず大きな枠組みから説明すると、障害者自立支援法の第77条には、コミュニケーション支援を目的として手話通訳(要約筆記を含む)者等を派遣すると書いてあります。第77条の第2項になりますが、もう少し詳しく言うと、「意思疎通を図ることに支障がある障害者等その他の日常生活を営むのに支障がある障害者等につき、手話通訳等(手話その他厚生労働省令で定める方法により当該障害者等とその他の者の意思疎通を仲介することをいう。)を行う者の派遣」を行なうと書いてあります。なぜこうした意思疎通の中間、つまりコミュニケーション支援が自立支援法の中に規定されているかというと、コミュニケーション支援がきちんと果たされれば、聴覚障害者の自立が可能となる条件の一つが整うと考えられているからです。いろいろな支援があるでしょうけれど、その中で、コミュニケーションを支援すれば、要するに通訳をきちんと派遣できれば、通訳を利用して聴覚障害者は、人と交渉し、話を聞き、学習し、働いていける、そういう考え方があるわけですね。
 そしてこれを受けて、地域生活支援事業の実施要綱というのがあるのですが、このなかの市町村の必須事業について記載した別記2に、「コミュニケーション支援事業」という項目があります。この事業は、「障害者等とその他の者の意思疎通を仲介する手話通訳者等の派遣等を行い、意思疎通の円滑化を図ることを目的とする」とされています。そして、「手話通訳者等」ですから、ここに要約筆記者も含まれ、実際、その派遣される要約筆記者の例として「要約筆記奉仕員」が掲載されています。

 要約筆記に関するもう一つの制度は、別記6や別記10に書かれています。別記6、10の規定は同じ内容ですが、別記6は市町村事業、別記10は都道府県の事業です。で、そこに何が書かれているかというと、「要約筆記奉仕員の養成事業」が、それぞれ、市町村と都道府県の任意事業として掲げられています。
  

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2009年07月13日

全要研集会第1分科会から−12



 研究討論集会のための提言論文が分析した社会啓発の内容は、次のようなものでした。聴覚障害者にとって暮らしやすい社会を実現するための啓発活動の目的は、
〈A〉聞こえない、聞こえにくいことに対する理解がある社会にする
〈B〉聞こえが保障された社会にする
〈C〉社会的援助が存在するだけでなく、容易に援助が得られる社会にする
 というところにあります。要約筆記する人の養成だけでは、これらの領域をカバーできないことは明らかでしょう。
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 提言論文では、この〈B〉については更に次の4つの観点が指摘されています。つまり、
〈B1〉誰もが気軽に筆談する社会
〈B2〉音声情報に字幕が付いている社会
〈B3〉補聴しやすい社会
〈B4〉的確に話を伝えてくれる通訳をいつでも依頼できる社会
 です。要約筆記する人の養成は、このうちの〈B4〉にのみ拘わっており、これ以外にもたくさんのことをしなければ、聞こえが保障された社会を作り出すことはできません。要約筆記をする人、他人の話を聞いてこれを的確に通訳できる人の養成については、ますます専門性を問われており、もっときちんと伝えて欲しいという要望が強い訳ですから、そういう専門性を持った人の養成ばかりしている訳にはいかないのです。通訳としての要約筆記がきちんとできる人の養成に加えて、これとは別に、社会に対して、広く働きかけ、聞こえが保障された社会を作り出していく、という活動が求められているのではないでしょうか。



  

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2009年07月11日

全要研集会第1分科会から−11

 本来、社会啓発の取り組みは、社会に対して、もっと広く行なっていくべきものです。社会啓発が進めば、聞こえない人、聞こえにくい人のことを理解している人が周囲に増え、筆談に応じてくれる人も増える、という意味で、中途失聴・難聴者の暮らしやすい社会に近づくはずです。社会啓発の取り組みを今までより更に広げる必要がある、ということです。そのためには、要約筆記をする人の養成と、社会啓発の取り組みとを、切り離した方が良いのではないでしょうか。
 これまで、要約筆記奉仕員の養成だけがもっぱら行なわれており、しかも要約筆記奉仕員には、常にもっと分かる要約筆記、要するに通訳としての要約筆記の高い技術が求められてきました。この結果、要約筆記奉仕員の養成が、社会啓発にとってはむしろ制約条件となっていたのではないでしょか。そう見るならば、この図表のように、両者を切り離すことで、つまり要約筆記する人の養成社会啓発の活動とを、一旦切り離すことで、社会啓発をもっと広い取り組みにできるのではないか、ということです。
 要約筆記奉仕員に関する検討作業部会では、この点についてまとめ、第11回全国要約筆記研究討論集会の提言論文として公表しました。理事会が発表した報告書の末尾には、このときの提言論文も掲載されていますが、提言論文の主張の一つの柱は、この要約筆記する人の養成と社会啓発の取り組みとを、切り離す方が、社会啓発を進める上でメリットが大きいのではないか、というものだと思います。そして、その考えは、研究討論集会に寄せられた論文を見る限り、多くの人々に支持されました。
 更に、提言論文には、もう一つの柱があったと私は思います。それは、社会啓発の内容を分析し、聴覚障害者にとって、どのような社会が望ましいと考えるか、という提言です。提言論文はこの点を分析し、次のように「望ましい社会のあり方」をまとめました。そして、その提言を先取りするような取り組みが、研究討論集会の論文で発表されていました。そのうちにいくつかの論文は、全要研理事会が公表した「報告書」の巻末に、資料として掲載されています。
  

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2009年07月10日

全要研集会第1分科会から−10

 このことを考えるために、要約筆記奉仕員がこれまでしてきたことをざーと見てみましょう。歴史的に、つまり1981年の要約筆記奉仕員の養成が始まってから、歴史的に要約筆記奉仕員がしてきたことを考えると、それはとても多様で、本当に様々な活動をしてきたことが分かります。もちろん、その場の話を書いて、聞こえにくい人、聞こえない人に伝えるということは、活動の最初からしてきました。難聴者協会の例会で書いて伝える、話し合いができるようになる、という点で、最初から、この、その場の話を書いて伝えるということは、要約筆記奉仕員の大きな仕事でした。
 それから聞こえの保障を求める運動に参加するということがありました。難聴者運動の始まりの時点では、「聞こえの保障」といって、今のように「情報保障」という言い方はしていませんでしたが、要するに聞こえの全世界を回復したい、保障して欲しいという要求があり、その聞こえの保障を求める運動に、要約筆記奉仕員も一緒になって参加してきました。
 それから、共に歩むというか、理解者としてそこにいる、という活動もあったと思います。社会にあってなかなか正しく理解されない難聴、中途失聴という障害を理解し、難聴者・中途失聴者の一番の理解者として、近くにいるといったことも、大切な役割だったと思います。また、映画の字幕を作って映画に付けて上映したり、テープ起こしをして情報を伝えたり、あるいはテレビの音声を筆録という形で提供したり、そうした活動もしてきました。


 こうしたたくさんの活動を、要約筆記奉仕員はしてきたと思いますが、その要約筆記奉仕員の活動に対して、常に圧力して掛かっていたのが、私は「通訳を求める」という要望だったと思っています。要約筆記奉仕員に対しては、根本のところで、「きちんと伝えて欲しい」という要望が常に寄せられていました。皆さんもよく「もっとレベルアップをして欲しい」と言ったり、言われたりしていると思いますか、その「レベルアップ」というとき、前提にされているのは、 「通訳技術」です。レベルアップして欲しいというとき、対人援助技術をもっと磨いて欲しいとか、もっと身近にいるあり方を考えて欲しいという人はほとんどおられません。みんなに通訳技術のことを考えているのです。
 そういう圧力がいつも要約筆記奉仕員には掛かっていた、と私は思います。でも、要約筆記奉仕員にとってどのような活動が本質的なものであるべきなのでしょうか。一人の要約筆記奉仕員にとって、ということではなく、社会の中で、「要約筆記奉仕員」というあり方が、果たすべき役割は何なのか、という問いです。
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 このことを、要約筆記奉仕員の養成と社会啓発という立場から見てみましょう。社会がある、その中でこれまで要約筆記奉仕員の養成が行なわれてきました。最初、まだ中途失聴・難聴という障害が社会に知られておらず、文字を使ったコミュニケーション支援を必要とする人がいると言うことが社会に知られていない状況では、要約筆記奉仕員の養成は、社会に対する啓発活動そのものだったわけです。要約筆記者を養成し、地域の福祉大会などに、手話と並んで要約筆記を付けることが、まず社会啓発の取り組みの第一歩でした。そういう時期は確かにありました。この時期、要約筆記奉仕員の養成と社会啓発はまさに一体のものだったのです。
 しかし、逆に言えば、要約筆記奉仕員の養成以外に、社会啓発の手段がなかった訳です。その間、要約筆記奉仕員は、常に、先ほど説明したように、通訳技術のレベルアップという圧力を受け続けてきました。当初、各地で20時間程度で行なわれていた要約筆記奉仕員の養成は、1999年の新カリキュラムが出されたことで、養成に52時間程度の学習が必要とされました。この新カリキュラムを策定する時に、難聴者側から出された要求は、基本的に、内容が伝えられる要約筆記奉仕員の養成でした。この結果、要約筆記奉仕員の養成は、以前より更に時間が掛かるようになりました。そうすると、要約筆記奉仕員の養成と社会に対する啓発とが一体化しているという状況は、社会啓発という面から見れば、明らかに制約条件に、社会啓発を広げることを難しくする条件となってしまったのではないでしょうか。
  

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2009年07月10日

全要研集会第1分科会から−9

 この点を整理してみると、直接、難聴者や中途失聴者とコミュニケーションする、話をする、というのは、要するに、筆談する本人ですよね。これに対して、他人の話を伝える、聞こえない人のコミュニケーションを支援する人というのが、要約筆記をする人、ということになります。

 そう考えると、これまで、要約筆記をする人、つまり他人のコミュニケーションを支援する人の養成は、「要約筆記奉仕員」の養成として行なわれてきた訳です。これは、1981年(昭和56年)に要約筆記奉仕員の養成が、国の障害者社会促進事業として、いわゆるメニュー事業に入った時にから、一貫してそうでした。

 これに対して、では、筆談する人の養成というのは、どこかで行なわれてきた、というと、組織的な行なわれてきたということはありませんでした。筆談でもって、聞こえない人、聞こえにくい人に直接コミュニケーションすることをいとわない人の養成というのは、メニュー事業にも入っていませんし、どこかで毎年行なわれてきたということも、少なくとも私は聞いたことがありませんでした。
 社会に、聞こえない人に対する理解を広げていく、という観点からは、本来もっと筆談する人の養成というか、気軽に筆談する人を増やしていく、という取り組みがなされても良かったはずです。しかし、残念ながら、こうした取り組みはほとんど行なわれてきませんでした。これはどうしてでしょうか。
  

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2009年07月04日

全要研集会第1分科会から−8

 筆談について、それが重要だということを話してきましたが、筆談はそんなに簡単なことではないと思っています。要するに、単に書けばそれでオッケーということではありません。やってみると分かるのですが、自分に言いたいことを書いて伝えるというのは、そんなに簡単なことではありません。やってみるとこれが意外に難しいのです。
 なぜ筆談が意外に難しいか、というと、通常私達が直接話しているときというのは、言語的なコミュニケーションをしている訳ですが、実際には、非言語的なコミュニケーションというものを伴っています。要するに、表情とか、態度とか、声のトーンとか、直接言葉として表われていないものを使いながら、会話している訳ですね。だから、「めし」「フロ」「寝る」だけでもコミュニケーションとして機能しているということもあり得る訳です。そこには、言葉以外の要素が、笑顔だったり、疲れた態度だったり、眠そうな仕草だったり、声のトーンというか調子だったり、そういうものが、動員されています。ところが、筆談の場合は、こうした非言語コミュニケーションが生かせない、というか、生かしにくいんです。書きながら、どういうふうに非言語コミュニケーションを使うかということについて、私達も訓練を受けていないし、筆談を受ける側も慣れていません。書かれたものだけで、通常の会話でやりとりしているものを全部、そこに乗せようとしても、通じるはずだと思って書いても、なかなかそうはいかないのです。



 そうなると、筆談する私達が、自らの筆談コミュニケーション能力をちゃんとしなくっちゃいけない、ということなんです。コミュニケーション能力を確立することが必要です。筆談は単に「書こう」と思うだけでできる訳ではない。ちゃんと一定の訓練をしないと、筆談でちゃんと伝えられるようにはならないと思います。
 実はここまで検討して、作業部会で気づいたのですが、私達、これまで要約筆記にかかわってきたものは、自分のコミュニケーション能力についてきちんと捉えるというか、自らのコミュニケーション能力について検討したり、考えたりすることがなかったんじゃないか、ということに気づきました。これまでの要約筆記奉仕員の養成について言えば、現在のカリキュラムやテキストは、要約筆記奉仕員に「通訳」としての側面を強く求めています。現在の要約筆記奉仕員の養成テキストにも、「要約筆記は通訳作業です」と書いてあります。ですから、要約筆記を学ぶ人は、他人の話を伝達する、その伝達を媒介するということについては、教えられてきたし、他人のコミュニケーションを支援するという力を求められてきました。でも、自分のコミュニケーション能力についてはどうだったのか、と考えると、少なくとも現在の要約筆記奉仕員のカリキュラムやテキストでは、そのことは触れられていません。
 考えてみると、自分のコミュニケーションがきちんとできなければ、まして他人のコミュニケーションを支援すると言うことができるでしょうか、できないんじゃないでしょうか。作業部会では、この点に気づき、そうすると、自分のコミュニケーションをきちんとできる、ということと、他人のコミュニケーションを支援するということを、分けて考えるべきじゃないだろうか、と考えました。筆談の重要性を取り上げたもう一つの理由は、この自分のコミュニケーション能力というものを考えるというところにありました。
  

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2009年07月03日

全要研集会第1分科会から−7

 筆談の重要性について考えると、その一番のポイントは、筆談で何か用事が済むといったことよりも先に、実はコミュニケーションできる、ということ、それ自体があります。要するに、きちんとしたコミュニケーション、他人と話が通じ合う、人とつながっている、という実感というか、安心感というか、そういうものが、筆談では得られやすいということです。これは思った以上に大きいと思っています。コミュニケーションは、何か内容を伝達して、用事を済ませるという側面もありますが、人とコミュニケーションすること、わかり合えるという状態になることも、コミュニケーションの本質としてあると思います。聞こえない、聞こえにくいという状態の中で、ただ大声で話されて、きちんと分からないまま、曖昧なコミュニケーションというか、コミュニケーションが成り立たない状況に置かれ続けることは非常に、いらだたしいというか、不安な状態ではないでしょうか。相手が筆談して、書かれたものが示されることにより、相手の伝えたいことが、聞こえの不安なく分かるという状態になること自体がまず重要なのだと思うのです。
 なので、それが特別のことではない、気軽にみんなが筆談するというような状況を作り出していくことは非常に重要です。気軽に筆談する人を増やしたいということですね。
 こういう場面で必要とされているのは、ですからいわゆる通訳としての要約筆記ではなく、筆談です。通訳としての要約筆記が必要とされることは勿論あります。ですが、聞こえない、聞こえにくい人の周りの人が直接的なコミュニケーションを図ろうとするならば、まず筆談する、筆談が有効なんだと分かっている人が周りにたくさんいるという状況を作っていくことが必要でしょう。
  

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2009年07月03日

全要研集会第1分科会から−6

 さて、こうした専門家につないでいく、ということの必要性について話してきましたが、聞こえないという障害に対する理解がある、ということも非常に大切です。社会が、ということは身の回りの人々が、聞こえないという障害に対して理解しているとはどういうことでしょうか。まず一つは、難聴者なら大きな声で話せば通じるとか、聞こえない人は手話を使うといった誤解を解消したいということがあります。以前と比べれば、こうした誤解は減ってきましたが、それでもまだまだ理解されていないということはあります。

 実際、特別養護老人ホームなど見ていると、ヘルパーの人が大声で話していたり、紙筒で耳元に怒鳴っていたりというのを見かけるといった話もあり、高齢難聴者に接することの多い人でも、なかなか理解されていないということがあります。こうしたヘルパーの方や、ケアマネの方々がもっと聞こえないことについて理解して欲しい、と思いました。もちろん、介護の対象者だけではなく、家族にも高齢難聴者がおられ、家族に説明するといった場合にも、同じように聞こえないことに対する理解がないと困るということもあります、
 こうした光景をみると、ちょっと筆談すれば通じるのに、と思うことがあります。実際、気軽に筆談する人が増えれば、難聴者の不便の多くは解消すると思います。もちろん筆談は万能ではないし、筆談についてまとまった研究もない、という状況ですが、聞こえない人、聞こえにくい人に対して、筆談することはとても大事です。現状では、相手が聞こえにくい、聞こえないと分かったら、気軽に筆談するということはまだまだ少ないですね。
  

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2009年07月03日

全要研集会第1分科会から−5



 つなぐ役割は重要だと考えました。つなぐためには、支援の制度について知っている人が身近にいることが大事です。どこかに行かないと教えてもらえない、というのでは役に立ちません。もちろん行政も様々なチャンネルで情報を流しているということは言えます。各市町村の広報誌などには、制度の存在が掲載されることは確かにあります。しかし、皆さんの中で、そういう広報を見たという方はどのくらいおられるでしょうか。私達のように、聴覚障害者の問題にある程度関心を持っている者でも、補装具の給付についての案内など、広報誌で見たという方は少ないのではないかと思います。
 こうした支援の制度があることを身の回りに知っている人がいて、気軽に「こういう制度があるよ。○○に行ってみたら」と教えられ人がいる、というのは、とても意味があることだと思います。
 そういう場合に、制度の何もかも知っているということは難しいですね。なので、少なくとも障害者自立支援法の中にある地域生活支援事業の「生活相談員」の制度を知っていて、そこまでつないで行く、それができれば、そこから、いろんな制度に気づいて、利用していけるのではないかと思います。制度だけでなく、社会の中の専門家につないでいく、ということもあります。言語聴覚士であるか、ソーシャルワーカーであるとか、そういう専門家につないでいくということですね。

 こうした専門家については実は私達作業部会のメンバーも最後まで、「言語療法士」とか「補聴器店」とか資料に書いていて、正しい名前を理解していませんでした。この点は、今回の集会で、正誤表が資料として配付されています。ちょっと見ておいていただきたいのですが、報告書第13ページのところ、「言語療法士」と「補聴器店」と書いてあります。これは、現在は法律や民間資格ができて、それぞれ「言語聴覚士」「認定補聴器技能者」となっています。正誤表の後ろには解説が書かれています。参考になると思います。以下に、更にまとめたものを掲載しておきます。
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 (1)言語聴覚士(Speech-Language-Hearing Therapist)について
 「言語聴覚士(ST)」とは、リハビリテーションの専門職の一つであり、1998年に施行された言語聴覚士法に基づく国家資格です。
 言葉や聞こえなど、コミュニケーションに障害のある方や周囲の方々に対して、医師や看護師、理学療法士(PT)や作業療法士(OT)、教育関係者や療育関係者などと連携を取り、訓練、相談、評価、指導などの専門的な援助を行ないます。
 正確な国家資格の名称は「言語聴覚士」ですが、国家資格が制定される以前は、言語療法士や言語治療士といった名称が使われていたため、今でも言語療法士といった古い表記で説明されることがあります。
(2)認定補聴器技能者(Hearing Aid Technician)について
 「認定補聴器技能者」は、補聴器の販売や調整などに携わる者に対し、基準以上の知識や技能を持つことを認定して付与される資格です。
 認定補聴器技能者の資格を取得するには、「認定補聴器技能者試験」(財団法人テクノエイド協会)に合格することが必要です。この試験の受験資格を得るには、「補聴器技能者基礎講習会」および「補聴器技能者講習会」の受講、所定年数以上の販売実務経験、指定講習会による規定ポイントの獲得、耳鼻咽喉科専門医(補聴器相談医)の指導を受け連携をもっていること、などの条件を満たすことが必要です。認定補聴器技能者試験は、筆記試験と実技試験です。
 認定補聴器技能者は、5年間の実務経験に従事しながら指定講習会を受講し、認定補聴器技能者更新講習会を受けていかなければならない、とされています。
  

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2009年06月27日

全要研集会第1分科会−その3,4

 3枚目の画面はこれ。


 検討の入り口として、第1回の作業部会の検討会で話し合ったのは、「聴覚障害者が暮らしやすい社会」とはどんなものか、と言うことでした。そこで話し合われたのは、聴覚障害者が暮らしやすい社会は、まず「聞こえない」「聞こえにくい」と言うことに対する理解がある社会だと言うことです。「社会」と言いましたが、要するに聴覚障害者の周りに「聞こえない」「聞こえにくい」というのはどういうことか知っている人が沢山いるということです。聞こえないという障害にどういう大変さがあるのか、ということを周りが知っていれば、必要があれば気軽に筆談するということになり、いちいち通訳者を連れて行くということをしなくても済む範囲が広くなります。第3分科会かな、災害時の対応については話し合っていると思いますが、どんなにインターネットとか、ファックスとか、災害時通報システムとか、開発されても、最後は人間、というところがあります。いざ避難と言うことになったとき、広報車が走ったとしても、「あっ、ここの家には聞こえない人がいるから」とドアを叩いてくれる、ドアを破って「早く避難しないと」と伝えてくれるのは人間です。そういう意味で、聞こえないこと、聞こえにくいことに対する理解のある社会ということが非常に重要です。
 その一方で、社会に障害者を支える制度がある、ということも非常に重要です。個人の善意だけではなく、制度があるということです。障害者が必要とするときに、必要な支援が得られなければ、人権が擁護されているとは言えません。例えば、聴覚障害者が通訳者が欲しいという時、きちんとした制度があり、その制度に則って一定のレベルの通訳者が派遣されると言うことが必要でしょう。
 そして、そうした制度に気づけること、また制度が利用されやすいものであることも重要です。どんなに優れた制度が用意されていても、その制度に気づけないとか、利用するのに手間がかかるというのでは、意味が有りません。

 この、制度に気づける、利用しやすい、ということは、特に高齢難聴者の場合や難聴協会など入っていない、いわゆる未組織の難聴者の場合、大きな意味があります。4枚目の画面は、この点をまとめたものですが、まず、中途失聴・難聴者の組織率は低いし、特に高齢難聴者は、そもそも障害者という自覚は低く、福祉制度につながっていません。全難聴が2004年度に発行した調査報告にも記載されていますが、高齢難聴者は数は非常に多いのですが、要約筆記とか、福祉制度の利用率は低いという報告があります。
 こうした高齢難聴者は、難聴協会などに入っていないことが多いのですが、難聴協会に入っていないと、なかなか福祉制度に気づきにくい、ということが言えます。難聴協会に入っていると、補聴器の補助がどうかとか、字幕デコーダーはどうか、とか情報がそれなりに入ってきますが、一人でいる中途失聴・難聴者には、なかなかそういう情報は入りません。地域の民生委員の方も、どういう福祉制度があるかまでは知らないとか、そういうことがあります。こうした組織化されていない難聴者、特に高齢難聴者がどういうルートで、福祉制度などに気づくか、という点です。
 また、研究討論集会での論文にもいくつか示されていますが、聞こえにくい人や中途失聴者を対象とした聞こえの相談会などで非常に大きな反響があるということがあります。聞こえの相談会などを開くと、「知らなかった」とか、「こういう制度があれば、是非利用したい」といった反応が沢山寄せられているのです。
 こうした点から、福祉制度につなぐ役割の大切さが見えてきました。社会に、障害者を支える制度があるだけでなく、その制度に容易に気づくことができ、利用しやすい制度であるということは非常に重要です。この後者の部分、それが「つなぐ役割」です。
  

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2009年06月26日

全要研集会第1分科会から−2

 次に、この作業部会を開催する際にどのような点に気をつけて検討を行なったかという点を説明したいと思います。作業部会での検討のスタンスのような点でした。
 まず第一に、理事会から言われたのは、「要約筆記者」対「要約筆記奉仕員」という構図から検討を始めるな、ということでした。「要約筆記者」については、全難聴が2004年から始めた「要約筆記に関する調査研究事業」というものがあり、2006年3月には、要約筆記者の到達目標と養成カリキュラムが出されていました。なので、「要約筆記者」という者は、すでに提案がされていたわけです。そこで、一方にこの「要約筆記者」というものをおいて、「だから、要約筆記奉仕員はこうあるべき」という議論になりやすいが、それでは、現在の要約筆記奉仕員の理解は得られない。そうではなくて、要約筆記奉仕員とは本来どうあるべきか、という点から考えて欲しい、と。理事会から、そういう釘を刺されていました。
 それで、じゃどこから検討を始めるか、ということで、「現場から考える」ということを検討の出発点におきました。現場というのは、要約筆記をしている現場という意味もありますが、もう少し広く、難聴協会の会員がいるところに限らず、介護の現場であるとか、聞こえない人、聞こえにくい人が実際にいる場所という意味です。特別養護老人ホームなどでは、高齢難聴者なども少なくないし、そうした介護を受けている人だけでなく、その家族が難聴者ということもあります。そうした現場で、例えばヘルパーの方やケアマネの方がどんなふうに接しているか、どういう課題があるかということを検討の対象に含めようと思いました。
 それから最後に、会員に対して、報告することと意見募集の機会を作るということを念頭に置きました。作業部会の途中で、何回か報告をしましたし、また中間報告などに対して意見募集をするとか、研究討論集会で意見を聞くなど、この線であれこれやってきました。
  

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2009年06月26日

全要研集会第1分科会から−1

  第27回全要研集会は、2009年6月20日、21日に、愛知県蒲郡市で開催された。5つの分科会が設けられたが、その第1分科会のテーマは、「要約筆記者制度の始動」。一方、全要研では、要約筆記奉仕員というあり方についての検討が必要だとして、2年ほど前から、作業部会を作って、あり方の検討をしてきた。その作業部会の座長のような役回りをしてきた。要約筆記奉仕員のあり方について検討するなかで、これまで要約筆記奉仕員が担ってきたこと、その優れた活動内容も、その活動が制約してきたものも見えてきた。
 作業部会では、その検討の内容を、2009年4月に、報告書の形にして、全要研の理事会に答申した。理事会は、これを受けて、理事会としての「報告書」をまとめ、2009年5月20日に発行している。この「報告書」は、全要研ニュース6月号に同封され、全会員に送付された。更に、その全文を全要研のホームページからダウンロードして読むことができる。
 とはいえ、この報告書は、資料も入れると50ページをこえるものだ。そこで、分科会の第一日目に、要約筆記奉仕員のあり方について検討した作業部会の検討の過程を報告をするように求められた。プレゼンテーション資料を用意し説明したものを、できるかぎり再現してみたい。なお、プレゼンテーション資料は25枚ほどあるので、連載ということにしたい。

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 全要研集会第1分科会の構成ですが、「報告書」の概要を全要研集会の第1分科会で第一日目に報告し、報告の後で長めの質疑の時間を取って質疑応答をするという組み立てになりました。参加の皆さんの意見を伺い、回答できるものは、分科会の中で回答し、また質問用紙に質問を書いていただいたものは、翌日までに可能な範囲で回答するとして分科会に臨みました。また、二日目については、一日目の報告を一つの道程として、パネルディスカッションを行なう、という構成になっていました。
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 左の画面は、その第一日目の最初の資料。ここでは、全要研としてどのような検討をしてきたかを説明しました。
(1)全要研が全難聴に呼びかけて、委員3名を推薦してもらい、全要研側委員(3名)と共に「要約筆記奉仕員に関する検討作業部会」を立ち上げました。
(2)途中、経過報告を、作業部会として全要研ニュースに数回掲載し、
(3)また、全難聴の機関誌にも記事を掲載させてもらいました。二度目のときは、かなり長いページ数をいただいて、詳しい検討結果を掲載しました。
(4)それから2009年2月に開催された全国要約筆記研究討論集会(九州)に、それまでのまとめから、作業部会として提言論文を提出し、この提言論文に対する意見を含むという方法で論文をいただくという形で、第1分科会が行なわれました。この分科会での討議は、その後の最終報告にも反映されたし、また分科会で、現在の要約筆記者派遣の目的と要約筆記奉仕員の養成の目標とがずれていることが取り上げられ、参加者に共通理解として認識されるということもありました。
(5)2008年末には、作業部会としての中間報告を作成し、これは全要研ニュースに同封する形で、全会員に送られました。また全難聴については、加盟協会に送られ、会員への周知が図られました。この中間報告に対しては、いくつか意見が寄せられました。何十という意見はさすがに集まりませんでしたが、いくつか、それなりに意見が寄せられ、これは最終報告に反映されました。
(6)その後、理事会から、中間報告に対する意見などを反映して最終報告書を作成するように作業部会に指示され、2009年3月末に第4回目の作業部会を開き、それまでの様々な意見をとりまとめ、作業部会としての最終報告を作成し、理事会に提出しました。
 これを受けて、理事会では、5月の理事会で内容についての確認を行ない、理事会としての「要約筆記奉仕員のあり方について」という報告書を作成し、全要研ニュースの6月号に同封されました。そして、今回の分科会。こんな経緯で検討作業を進めてきたことになります。
 全要研という組織が、自らこうした課題に取り組み、2年近い検討と意見募集とを行ない、一つの方向性を出す、という取り組みをしてきたことは、ほとんど初めてではないかと思います。
  

Posted by TAKA at 02:04Comments(1212)TrackBack(0)要約筆記

2009年05月08日

「要約筆記は通訳」と「通訳としての要約筆記」

 「要約筆記は通訳だ」という言い方がされている。要約筆記は、自分のコミュニケーション手段ではなく、他人のコミュニケーションを媒介するものだから、この言い方は、確かに要約筆記の姿を的確に指摘している。私が属している地元のサークルは、創立以来、「要約筆記等研究連絡会・まごのて」といって、わざわざ会の名称に「等」を入れているが、「等」を入れるとき、「要約筆記」だけでなく、映画の字幕も作るし、というような感じ方が確かにあった。では、「要約筆記は通訳」というだけで、良いのだろうか。私自身は、通常は「通訳としての要約筆記」という言い方をしている。要約筆記には様々な活動が含まれるが、その内の「通訳としての要約筆記」はこういうものだ、という説明をしている。この二つの表現、「要約筆記は通訳」と「通訳としての要約筆記」との関係はどういうものだろうか。以下、私見。
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 要約筆記は、手話のように言語それ自体を指し示している訳ではない。要約筆記の活動とは、必然的に、自己のコミュニケーションではなく、他者のコミュニケーションや情報取得をサポートする作業、ということになる。しかし、「要約筆記の活動」は「通訳」そのものでない様々な活動を、現実に含んで進められてきた。「要約筆記」は、福祉行政の谷間におかれ、手話を使わないために、社会の情報保障から取り残されてきた中途失聴・難聴者に聞こえを回復しようとする運動の全体を意味する、いわば歴史的な蓄積を背負ってきた。
 中途失聴・難聴者が聞こえを回復するために必要とするものの全体像は、最初から明らかだったわけではない。もちろん、中途失聴難聴者が互いの意思を疎通し合い、福祉の運動を進めていくために、難聴者協会などの会議で、話を筆記するという活動のあり方は、早くから認識されていた。しかしそれだけにとどまらず、ある時は映画の字幕を作ることが、時には政見放送に字幕を付けるように求める運動が、テレビの筆録を作る活動が、難聴児の学校生活を支える運動が、それを求める中途失聴難聴者の要望に応えようとして行なわれてきた。それらの活動が、「要約筆記活動」の幅を拡げ、その中身を少しずつ豊かにしてきたのだ、と私は理解している。
 活動の幅は、聴覚障害者の自己決定を支える通訳としての要約筆記の重要性が理解されることで、通訳の側に大きく拡がり、その一方で、中途失聴・難聴者と筆談を使った直接的なコミュニケーションを厭わない人との交流を伴う社会参加の活動としての広がりも作り出してきた。
 そうした多様な活動の中で、聴覚障害者の権利擁護という観点から、聞こえない人のコミュニケーションを支援する活動が、聴覚障害者の人権を擁護するものとして、2000年に、社会福祉事業に位置づけられた。つまり、「社会福祉事業として行なわれている要約筆記は通訳」だ、と言うことができる。聴覚障害者の権利を擁護するために必要となるもの、それは社会福祉事業として位置づけられるべきであり、そのように位置づけられた要約筆記は通訳なのだ。
 一方、この社会福祉事業として行なわれている要約筆記を、上述した歴史的な活動の中においてみると、それは「通訳としての要約筆記」ということになる。その回りには、通訳行為以外の活動がいくつも存在している。全要研が二年掛けて検討してきた要約筆記奉仕員の活動領域は、実際極めて広い。聞こえを保障すべき場所は、まだほとんど埋められていないと言っても良い。「要約筆記は通訳」だというのは、社会福祉事業としては、全く正しい。と同時に、これまでに、「要約筆記」という名前の元で行なわれてきた豊かな活動、中途失聴難聴者の聞こえの世界を少しでも拡げようとした様々な活動の全体を「要約筆記の活動」とみるとき、「通訳としての要約筆記」は、そのホンの一部を言い表わした言葉だ、ということになる。
 こう考えれば、両者を矛盾なく理解することができる。
  

Posted by TAKA at 03:24Comments(2028)TrackBack(0)要約筆記

2009年05月08日

「出星前夜」(飯嶋和一)小学館

 飯嶋和一「出星前夜」を読んだ。同じ作者の「始祖鳥記」を読んだのは2年ほど前か。その読了の印象は、きわめて鮮やかだった。まして今回は大佛賞受賞作品。期待に胸ふくらませて読んだのだが、読後の印象は全く異なった。この作品は残念ながら、無闇に分厚いだけだ。
 戦争と医者、というテーマは、司馬遼太郎の「花神」を思い出させた。幕藩体制と農民の蜂起、というテーマでみれば、白土三平の「カムイ外伝」を思い出す。「出星前夜」は、いずれのテーマでも、両者に遙かに及ばない。一つは、小さな破綻が、いくつもあって、物語を読む上で一々目障りだということ。もう一つは、登場人物を描く視点が定まらないこと。例えば、鬼塚監物。彼を描く視点が、登場人物から見た多面的な評価という形で造形されるなら視点が動くことは理解できるが、所々に作者の視点(いわゆる小説における神の視点)からの評価が差し挟まれる。これは意図的なものとは思われない。更に、地図を見ないと理解できない位置関係が取り上げられ、扉に地図が付けられているが、この地図が不十分で、参照しようとしてもできない場所がいくつかあること。
 しかし、これらはある意味では枝葉末節なことに過ぎない。一番の問題は、前半、鬼塚監物が感じ、そのために農の生活を選択した理由となったこと、つまり人を殺すことに対する強い嫌悪感、戦の、人を殺すことで成り立つあり方に対する強い否定が、後半の蜂起の中でどのような形で生きられるか、ということが全くなおざりにされ、ほぼ放棄されているということだ。このことは、寿安においても同じ。人を殺めた者が医者となって人を救えば許されるのか、という問題は、一人の誠実な人間が、生涯をかけるテーマだと思うが、それが寿安の中でどのように生きられたかは、末尾に数ページ、後日譚のように語られる僅かな記述から読み取る他はない。寿安は無私の人として残りの人生を生きたらしい。しかし、彼の中で、かつて人を殺めたことが、どのように生きられたかは分からないままだ。
 「カムイ外伝」では、正助は、蜂起を回避して「逃散」という手段を選択する。死んでは何にもならない、正助は最後までそう考え、最後まで武装蜂起に反対する。鬼塚監物は実在の人物らしいから、彼を逃散の首謀者にすることはできなかったろう。それならば、彼を、戦に対する、人を殺めて成り立つ生活に対する強い嫌悪感を抱いた人物として、物語の前半に造形したことは、そもそも間違っている。この物語が破綻している一番の理由はそこにある。
 歴史小説において、実在の人物の、不明な考え方や不明な行動とその理由を、作者が想像力によって埋めていくことが許されるとしても、それは整合性を保たなければならないはずだ。物語前半の鬼塚監物の考え方、感じ方を作者が造形するとすれば、それは後半の史実につながらなければならない。大佛賞受賞に当たって、「「たしかにここに歴史があった」と言う実感−傑作である」と井上ひさしは評したと、本の腰巻きに書いてあるが、本当だろうか。僕には、歴史は感じられなかった。
  

Posted by TAKA at 02:21Comments(1420)TrackBack(0)読書

2008年11月19日

木喰と写楽

 だいぶ前のことになるが、木喰(もくじき)展を見に行った。木喰は、円空仏に似た独特の木彫で知られる。その作風は極めて独創的だと思う。喜怒哀楽、人間の持つ豊かな感情の表現がそこにある。木喰上人は、18世紀の人だ。
 しかし、その喜怒哀楽の表現は、同時代の仏像表現と比べれば独創的だが、個性の表現ということはできない。そこで表現されているのは、確かに喜怒哀楽の感情だが、特定の個人の感情ではない。それは人間の感情一般の誇張された表現だということができる。
 さらに時代をさかのぼれば、そうした人間の感情一般の表現ではなく、仏の慈愛とか厳しさとか、そうした表現に出逢う。というか、永く表現されるべきは、人間の理想としての神や仏の神性や仏性であり、人間の感情ではなかった。法隆寺の四天王は、仏を守護する四天王の性質を表現するが、それは人間一般の感情の表現ではない。東大寺南大門の阿吽の金剛力士像は、大きな感情を表現しているように見えるが、人間の感情表現に直接つながっているとは思われない。
 これに対して木喰の作品は明らかに人間の感情を表現しようとしている。しかし、それでも木喰の時代、それは人間の喜怒哀楽ではあるものの、人間の感情一般であって、モデルとしての個人を感じさせるものにはなっていない。
 木喰上人の生きた時代のすぐ後に、写楽がいる。写楽の描いた役者絵には、個人を感じることがある。木喰から写楽へ。その違いは、おそらく普通に考えるより大きいのだと思う。
  

Posted by TAKA at 02:13Comments(1449)TrackBack(0)美術

2008年10月15日

全国要約筆記研究討論集会に向けて−その2

 提言論文には図が2つ付いている。その図は、要するに社会の中で、聞こえない人への理解を拡げるという側面と要約筆記奉仕員を養成するという側面を連動させるのではなく、前者を拡大する方法を考える場合の道筋を示している。社会の中で、聞こえない人、聞こえにくい人への理解を拡げることができれば、その理解の輪の中で、要約筆記により他人の話を通訳する人も、聞こえない人への字幕を作る活動も、プラネタリウムの上演や芝居の情報保障をする取り組みも、広がり、育っていく筈だ。
 そのためには、
   要約筆記で通訳する人の養成=聞こえない人・聞こえにくい人の現状や困難さを理解する人
 という等号(=)を、不等号(<)にしなければいけない。
 この左側を通訳者として認定し、社会福祉事業として社会的な制度として機能させていく、という努力を一方におき、他方に、啓発の運動を置く。啓発の運動は、つまるところ聴覚障害者の社会参加促進という側面を持つから、これを自立支援法の地域生活支援事業の実施要綱における「要約筆記奉仕員養成事業」として整理していく、そういう方向性が望ましいと私は思う。
 この辺の整理をしていくことが、提言論文を掲げ、要約筆記研究討論集会の第1分科会で取り上げようとしている意味だろうと思う。どんな討論集会になるのか。ちょっと楽しみではある。
  

Posted by TAKA at 02:08Comments(1467)TrackBack(0)要約筆記

2008年10月06日

研究討論集会に向けて

 全要研ニュース10月号が配送されてきた。この中に、一年の休止を挟んで再開された全国要約筆記研究討論集会の募集要綱が同封されている。併せて、その第1分科会の提言論文が掲載されている。第1分科会に参加する人は、この提言論文に対する自分の意見を論文にして提出することになっている。

 提言論文の主張のポイントは、中途失聴者・難聴者の現状や社会的な困難さを理解して自ら筆談で自分の意図を伝えようとする人の養成と、要約筆記という方法を用いて他人の話を聞こえない人に伝達しようとする人の養成とを分離しようと言うところにあるようだ。「分離」といっても、要約筆記者は当然、前者、つまり中途失聴者・難聴者の現状や社会的な困難さを理解することを含んでいる。ただ、これまでは、中途失聴者・難聴者に関係して健聴者に対して行なわれてきた養成というものは、基本的に要約筆記奉仕員の養成しかなかった。要約筆記奉仕員の養成以外の、中途失聴者・難聴者に対する理解と支援を求めるような講習会は、ごく限られた例外を除いて存在しない。特に公的な制度として位置づけられたものは、一つもない。
 ということは、要約筆記奉仕員を養成する講座なりが、中途失聴者・難聴者に対する理解・啓発を進める講座であったということだ。つまり、
 中途失聴者・難聴者に対する理解・啓発を求めること = 要約筆記奉仕員養成
という関係になっていた。ここをイコールではなく、
 中途失聴者・難聴者に対する理解・啓発を求めること > 要約筆記奉仕員養成
にすべきではないか、と提言論文は、問題を提起している。

 (以下、次回)
  

Posted by TAKA at 03:39Comments(1460)TrackBack(0)要約筆記

2008年10月06日

ブログの再開

長い間ブログを更新できなかった。結局、長いひとまとまりの文章を書こうとするからこうなってしまう。と言うわけで、ちょっと短く、適当に切り上げて書こうと思う。

 手始めに、と言ってはなんだが、美術の話題から。

 東京の上野、国立西洋美術館でハンマースホイ(1864-1916)の展覧会をやっている。あまり知られた人ではないが、見に行って驚いた。室内画が素晴らしい。変な言い方だが、どの室内画も色っぽいのだ。画家のまなざしが、自らの暮らしている空間を知り尽くして、まるで家屋の内臓を描いているように思える。こんな印象を絵画に対して持ったのは初めてだ。なんの変哲もない家屋、床、壁、窓、テーブル、ピアノ、壁に掛かった銅版画、それら一つひとつが、その中で生きる人を愛するように、描かれている。
 あまり期待していなかったが、行って良かった。どんなものも、結局足をのばして行ってみないと分からない。

  

Posted by TAKA at 03:25Comments(1425)TrackBack(0)美術
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TAKA
コミックから評論、小説まで、本の体裁をしていれば何でも読む。読むことは喜びだ。3年前に手にした「美術館三昧」(藤森照信)や「個人美術館への旅」を手がかりに、最近は美術館巡りという楽しみが増えた。 大学卒業後、友人に誘われるままに始めた「要約筆記」との付き合いも30年を超えた。聴覚障害者のために、人の話を聞いて書き伝える、あるいは日本映画などに、聞こえない人のための日本語字幕を作る。そんな活動に、マッキントッシュを活用してきた。この美しいパソコンも、初代から数えて現在8代目。iMacの次はMAC mini+LEDディスプレイになった。       下出隆史
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