2007年08月27日

要約筆記の現状−2

 要約筆記が通訳行為、あるいはきわめて通訳行為に近い作業だということかなかなか理解されないでいる理由について触れる前に、現在の要約筆記を巡る状況をおさらいしておきたい。
 1981年(昭和56年)に、要約筆記奉仕員養成事業が、厚生省(当時)の社会参加促進事業(いわゆるメニュー事業)に加えられてから、要約筆記は奉仕員事業として発展してきた。たくさんの心ある要約筆記者が、中途失聴・難聴者の聞こえの保障を少しでも実現しようと、本当にがんばってきた。当時を振り返ると、OHPの前に座って書くだけが要約筆記ではなかった。それこそ中途失聴者・難聴者の団体(難聴協会)の例会に参加すること、磁気誘導ループを設置したり、機関誌の印刷を手伝ったり、映画の字幕を作ったり、時には一緒に街頭をデモ行進したり(写真は1978年11月2日の名古屋・栄で行なわれた「聞こえの保障」を求めるデモ)、など様々な活動に参加してきた。そこには、ただ中途失聴・難聴者の聞こえの世界を少しでも広げたいという気持ちだけがあり、通訳だとか字幕だとか、何か区別をたてて考えるということはほとんど無かった。音声情報を文字化することで、聞こえの保障が実現できるのだという、ある意味できわめて楽観的な気持ちで取り組んでいたのだと思う。
 1985年(昭和60年)には、要約筆記奉仕員派遣事業がメニュー事業に加わった。そして各地で要約筆記奉仕員の派遣が始まる。要約筆記者の養成と派遣が、要約筆記の活動の中で大きな割合を占めるようになってくる。全国要約筆記問題研究会(全要研)と全日本難聴者・中途失聴者団体連合会(全難聴)は、要約筆記指導者養成講座を開いて、人の話を聞いて書く、という作業をする人、つまり要約筆記する人の養成や、要約筆記を教えられる人の養成に力を入れてきた。他方、日本映画に字幕を付ける活動も、次第に広がりを持ち、全要研では全要研集会に字幕専門分科会を持つようにもなった。
 そして、1998年。厚生省の呼びかけで、要約筆記奉仕員の新しいカリキュラムが策定される。私見によれば、このとき作成された要約筆記奉仕員養成カリキュラムは、いわゆる通訳行為に向けてかなり踏み込んだものとなっている。たとえば守秘義務や越権行為の禁止などが明確にうたわれ、このカリキュラムに沿った養成を行なうために作られたテキストには、「要約筆記は通訳行為です」という記載が見られるからだ。また、このカリキュラム策定の記録をひもとくと、中途失聴・難聴者の側から、もっと使える要約筆記、会議などの情報保障をしっかりと支える要約筆記に対する強い要望があり、それまでの多くの地域での養成時間から見れば、倍近い52時間という養成時間が設定されたことがわかる。
 更に、全難聴が中心となって、2004年度から、要約筆記に関する調査研究事業が開始された。これは、要約筆記が手話通訳事業とともに、2000年に第二種社会福祉事業に位置づけられたことを受け、社会福祉事業としての要約筆記事業を明確にしようとするものだったと思う。2年にわたる調査研究事業の結果、「通訳として要約筆記」「権利擁護のための要約筆記」という整理がなされ、要約筆記奉仕員とは別の、「要約筆記(通訳)者」の到達目標とその養成カリキュラムが提案された。
 ここまでが、ものすごく駆け足で見た要約筆記活動の流れだ。そして現状、要約筆記奉仕員と要約筆記者との関係は、なぜか混迷している。第二種社会福祉事業としての要約筆記を奉仕員事業のままではなく、要約筆記者事業として制度化したいという考え方に対して、要約筆記奉仕員事業がこれまであり、障害者自立支援法の下でも同じように要約筆記奉仕員事業で対応できるのだという考え方が主張されている。実際「要約筆記者養成カリキュラム」が厚生労働省から通達されないでいることも、後者の考え方に力を与えているように見える。
 この問題を考えてきて思うのだが、「通訳としての要約筆記」「権利擁護のための要約筆記」という主張は、本来、要約筆記奉仕員による活動全体を置き換えようとするものではなかったのに、あたかも「要約筆記者」の養成・派遣事業が始まれば、要約筆記奉仕員はもはや不要だと受け取られたのではないか。要約筆記が始まったときの原点に戻って考えてみれば、中途失聴・難聴者の聞こえの保障を目指したたくさんの活動があり、そこから中途失聴・難聴者のコミュニケーションを支援する活動や日本映画に字幕を付ける活動などが、少しずつ専門性を持った活動として固まり、一つ一つ固有の活動領域を形成してきたのではないか。図解するとすれば、
 「現在の要約筆記の活動」まるごと→要約筆記事業に移行
ということはあり得ない。
 現実に、要約筆記奉仕員がこれまで取り組んできた活動を考えれば、
 「現在の要約筆記活動」├の一部→「要約筆記(通訳)事業」
─┬──────────┘     として明確化
 └の別の一部→「要約筆記奉仕員や字幕の活動」として明確化
 という関係のはずだ。要約筆記奉仕員がこれまでしてきた活動を考えれば、要約筆記者事業が始まっても、要約筆記奉仕員の活動のすべてが移行できるはずがないことははっきりしている。
 この関係をきちんと整理し、理解しないと、現在の混迷からは抜け出せないのではないか。逆に言えば、ここがきちんと理解されれば、両者の関係が対立的なものではなく、相互補完的なものであることが明確になるのではないか。  

Posted by TAKA at 23:35Comments(0)TrackBack(0)要約筆記

2007年08月27日

板谷波山展に

 今日は、暑い中、板谷波山展に行ってきた。場所は、知多市歴史博物館。板谷波山の作品は、東京の出光美術館にかなりあるらしく、そこから43点ほど、借り受けての展覧会。展示室一つのかわいらしい展示だ。
 板谷波山は、もともと彫刻家。最初の職は、石川県工業学校の彫刻科の主任教諭。そこが廃止されて、窯業科にかわったという経歴を持っている。そのせいか、轆轤は、最後まで自分では引かなかった。轆轤師が轆轤をひき、そうしてできた壺や皿に模様やデザインを掘り、描いた。
 デザインというか陶器の意匠は確かにすばらしい。そして展示されたスケッチの一部を見ると、そうしたデザインを支えるための写生や装飾模様の研究は相当のものがあったことがわかる。安易に教訓を引き出す必要はないのだが、確かにこうしたスケッチなどの蓄積なしに、高いレベルの作品は生まれ得ない。
 ところでこのスケッチ帳がいい。たとえばタマネギの写生が、タマネギ形状の花瓶にデザインされている課程が手に取るようにわかる。蕪もいい、スケッチブックと実際に作られた作品とが展示されているだけに、波山における写生からデザインへという運動を、そこから読み取ることができる。所々簡単なメモが入っている。「あじさいを写生中に脇腹を食いに来た大あぶ。実物大」と書かれたメモの横に、あぶのスケッチが添えられている。「実物大」とあるから、あぶはたたき落としたのだろうか。あじさいの彩色が途中までなのは、あぶに食われたのを治療したから? など波山の写生につきあっている気持ちになる。
 小さな町の小さな展示。思いがけず良い時間だった。  

Posted by TAKA at 02:12Comments(2)TrackBack(0)美術
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TAKA
コミックから評論、小説まで、本の体裁をしていれば何でも読む。読むことは喜びだ。3年前に手にした「美術館三昧」(藤森照信)や「個人美術館への旅」を手がかりに、最近は美術館巡りという楽しみが増えた。 大学卒業後、友人に誘われるままに始めた「要約筆記」との付き合いも30年を超えた。聴覚障害者のために、人の話を聞いて書き伝える、あるいは日本映画などに、聞こえない人のための日本語字幕を作る。そんな活動に、マッキントッシュを活用してきた。この美しいパソコンも、初代から数えて現在8代目。iMacの次はMAC mini+LEDディスプレイになった。       下出隆史
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