2007年11月09日

要約筆記サークルと「派遣」

 忙しくて、ブログの更新ができない。せめて週1回くらいは更新したいのだが。週末か、出張の列車の中でしか書く時間がない。今日は、研修のために東京を往復。以下は、新幹線の中で書いてきたもの。推敲が足りないところはご容赦願いたい。
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 以前このブログで、要約筆記サークルと登録要約筆記者の会との関係を巡って、名古屋では、サークルは要約筆記の派遣を引き受けないという整理をした、という話を書いた。これに対して直接という訳ではないが、要約筆記サークルが派遣に関わらないとすることが間違っている、という意見を最近になって聞いた。サークルが派遣に関わることを否定すると、要約筆記の依頼をする側の緊急避難的な依頼の窓口をなくすことになるから、という論旨のようだ。自立支援法ができて、基本的に市町村はコミュニケーション支援のための派遣を行なうことが義務づけられたといえる。したがって、聴覚障害者の人権や命に関わる場合には、原則派遣を受けることができる。まずは、この派遣の仕組みを整えることが第1だろう。
 しかし、そうは言っても様々な理由から、制度外の派遣の依頼というものは、残る可能性がある。緊急避難的な依頼とは、どんな場合が考えられ、それについてはどう考えたら良いのだろうか。名古屋でのサークル活動の経過も振り返りつつ、この点を補足したい。

 名古屋での要約筆記サークル「まごのて」の活動を振り返ると、1980年代においては、要約筆記者の派遣を含めて、その役割はきわめて大きかった。サークルの設立からの数年間は、要約筆記者の派遣に明け暮れたといっても良い。毎週のように、要約筆記者を探して派遣していたことを思い出す。公的な要約筆記奉仕員派遣制度は、名古屋の場合、厚生省(当時)のメニュー事業より一年早く、1984年に始まったが、サークルによる要約筆記者の派遣は、それ以降も続いた。その内訳を検討すると、派遣規定に乗らない派遣のほか(当初、宗教行事と政治活動は派遣対象外)、有料派遣の派遣費が高額すぎるため、というものが大部分だった。例えば、スクーリングの情報保障。派遣制度を運営する聴覚言語センターは、これは本来は学校側が保障すべきもの、というスタンスであり、有料派遣なら派遣するという。僅か3日間のスクーリングでも、午前午後、それぞれ3名の要約筆記者の派遣を受けると、のべ18名、派遣費用は数万円に達する。学校側が「負担しない」といえば、個人負担になってしまう。そこでサークルに支援の要請がくる、という構図だ。
 「まごのて」でも、当初、こうした依頼は引き受けていたが、「安いから」という理由で利用されるのは、どうも腑に落ちないと感じてきた。そこで、当初は、依頼者には「まごのて」に入会してもらい、本来必要な情報保障は、学校側が行なうべきだ、それは校舎の階段にスロープを付けることと何ら変わりがなく、障害の有無にかかわらず、同じ授業を受けるために必要なのだ、ということを学校側に訴えていく運動を共にしよう、という整理をした。そして、要約筆記者をサークルから派遣し、交通費はサークルで負担、依頼者には無料(サークルの年会費を払って頂く)という対応をとってきた。
 この時期、要約筆記奉仕員の公的な派遣制度はすでに存在しており、この派遣に乗らない要約筆記の依頼、いわゆる緊急避難的な依頼をサークルが受けている、という関係になっていた、といって良いだろう。なお、「緊急避難的依頼」というと、例えば夜間とか、「どうしても明日」といった依頼のイメージがあるが、こうした緊急性の高い依頼は、むしろ仕事として派遣を担っている公的な派遣制度の方が対応できる範囲は広い。サークルは地域のすべての要約筆記者を把握しているわけではないし、その窓口担当者といつでも連絡が取れるわけではない。公的な派遣制度の方が、時間的な意味での緊急性に対しては強いのではないかと思う。

 さて、上記のやり方で、派遣制度に乗らない要約筆記の依頼をサークルで引き受けてきたが、ある時、次の疑問が生まれた。それは、依頼者から見たとき、派遣制度に乗るか乗らないかは、欲しい情報保障の質には無関係ではないか、という疑問だ。要約筆記による情報保障を欲している、ということは、一定以上の質の要約筆記を求めているということであり、「サークル派遣だから情報保障の質については目をつぶる」というのは、本末転倒ではないか。もちろんサークル派遣だから質が低いとは言い切れない。しかし、サークルには、要約筆記をきちんと学んでいない人もいる、講座の中途脱落者だっている、もう長いこと要約筆記の派遣に行っていない人もいる、登録要約筆記奉仕員研修会に出たことのない人もいる、それはサークルの性質上、当然にあり得ることだ。サークルは登録要約筆記者の会ではないのだし、その活動の目的ももっと広いのが普通だからだ。
 他方、登録要約筆記者の会はどうか。そこにいるのは、少なくとも要約筆記奉仕員養成講座を受講した人だ。登録後の研修も、本来は受けているはずだ。もしここが、制度外の要約筆記の依頼を引き受けられるなら、それが一番良い。そういう考えを、2006年に結成された登録要約筆記者の会・なごやが、会として認識され、会員の賛同を得た。そして、登要会なごやの中に支援部を作り、公的な派遣制度に乗らないこうした要約筆記の依頼を、引き受けるようになった。要約筆記を依頼する側からみれば、公的な制度に乗った派遣にせよ、乗らない派遣にせよ、情報保障を受けたいという要求に変わりはない。緊急避難だから、情報保障の質がいつもと違ってかまわないという理屈はない。公的な派遣制度を担う要約筆記者(または要約筆記奉仕員)のメンバーが、制度外の派遣であっても情報保障を担うなら、こんなに望ましいことはない。また、登録要約筆記者の会が、そうした制度外の派遣の依頼の件数や内容を蓄積することにより、公的な派遣の範囲を広げる運動にも直接つなげていくことができる。サークルや個人的な対応によって制度外の派遣を処理していたのでは、行政からみれば、「それでまかなえるなら良いではないか」ということになりかねない。
 要約筆記による情報保障の場を広げていく活動の初期において、要約筆記サークルが果たした役割は、おそらく日本中のどの地域でも巨大だった。要約筆記サークルができることで、その地域の中途失聴・難聴者の聞こえの保障を押し広げてきたことは間違いがない。しかし、いつまでもサークルの活動に頼ってはいけない、と私は思う。サークル活動の意義は、参加者の自己実現や社会にそれまでなかった支援の萌芽を育てる活動という点ではとても大きい。その活動の中で、障害者が必要とする支援の形が明確になれば、それを公的な領域に移していく、という視点を持たないとサークル活動は硬直化しやすい。サークル員の自己実現が、本来の目的ではないはずなのに、得てしてサークルの存続それ自体や、サークルがそれまでに担ってきた活動への固執、ということなりやすい。「緊急避難」などという言葉が、そうした固執を正当化するために用いられるとすれば、あまりに悲しい。サークルのリーダーは、サークルの役割をきちんと整理し、自分たちが切り開いてきた活動、支援というものが公的な制度に移し替えられていくように努力することが望まれる。自分たちが切り開いてきた活動が公的な枠組みに移されることは、当事者としては少し寂しいが、自分たちには新しい活動が待っている、と受け止めたい。
 「聞こえの保障」という広い世界を見渡せば、聞こえが保障されていない場面はまだまだたくさんある。サークルが、取り組むべき先駆的な活動のフィールドはいくらもあるのだから。


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TAKA
コミックから評論、小説まで、本の体裁をしていれば何でも読む。読むことは喜びだ。3年前に手にした「美術館三昧」(藤森照信)や「個人美術館への旅」を手がかりに、最近は美術館巡りという楽しみが増えた。 大学卒業後、友人に誘われるままに始めた「要約筆記」との付き合いも30年を超えた。聴覚障害者のために、人の話を聞いて書き伝える、あるいは日本映画などに、聞こえない人のための日本語字幕を作る。そんな活動に、マッキントッシュを活用してきた。この美しいパソコンも、初代から数えて現在8代目。iMacの次はMAC mini+LEDディスプレイになった。       下出隆史
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