2009年07月04日
全要研集会第1分科会から−8
筆談について、それが重要だということを話してきましたが、筆談はそんなに簡単なことではないと思っています。要するに、単に書けばそれでオッケーということではありません。やってみると分かるのですが、自分に言いたいことを書いて伝えるというのは、そんなに簡単なことではありません。やってみるとこれが意外に難しいのです。
なぜ筆談が意外に難しいか、というと、通常私達が直接話しているときというのは、言語的なコミュニケーションをしている訳ですが、実際には、非言語的なコミュニケーションというものを伴っています。要するに、表情とか、態度とか、声のトーンとか、直接言葉として表われていないものを使いながら、会話している訳ですね。だから、「めし」「フロ」「寝る」だけでもコミュニケーションとして機能しているということもあり得る訳です。そこには、言葉以外の要素が、笑顔だったり、疲れた態度だったり、眠そうな仕草だったり、声のトーンというか調子だったり、そういうものが、動員されています。ところが、筆談の場合は、こうした非言語コミュニケーションが生かせない、というか、生かしにくいんです。書きながら、どういうふうに非言語コミュニケーションを使うかということについて、私達も訓練を受けていないし、筆談を受ける側も慣れていません。書かれたものだけで、通常の会話でやりとりしているものを全部、そこに乗せようとしても、通じるはずだと思って書いても、なかなかそうはいかないのです。
そうなると、筆談する私達が、自らの筆談コミュニケーション能力をちゃんとしなくっちゃいけない、ということなんです。コミュニケーション能力を確立することが必要です。筆談は単に「書こう」と思うだけでできる訳ではない。ちゃんと一定の訓練をしないと、筆談でちゃんと伝えられるようにはならないと思います。
実はここまで検討して、作業部会で気づいたのですが、私達、これまで要約筆記にかかわってきたものは、自分のコミュニケーション能力についてきちんと捉えるというか、自らのコミュニケーション能力について検討したり、考えたりすることがなかったんじゃないか、ということに気づきました。これまでの要約筆記奉仕員の養成について言えば、現在のカリキュラムやテキストは、要約筆記奉仕員に「通訳」としての側面を強く求めています。現在の要約筆記奉仕員の養成テキストにも、「要約筆記は通訳作業です」と書いてあります。ですから、要約筆記を学ぶ人は、他人の話を伝達する、その伝達を媒介するということについては、教えられてきたし、他人のコミュニケーションを支援するという力を求められてきました。でも、自分のコミュニケーション能力についてはどうだったのか、と考えると、少なくとも現在の要約筆記奉仕員のカリキュラムやテキストでは、そのことは触れられていません。
考えてみると、自分のコミュニケーションがきちんとできなければ、まして他人のコミュニケーションを支援すると言うことができるでしょうか、できないんじゃないでしょうか。作業部会では、この点に気づき、そうすると、自分のコミュニケーションをきちんとできる、ということと、他人のコミュニケーションを支援するということを、分けて考えるべきじゃないだろうか、と考えました。筆談の重要性を取り上げたもう一つの理由は、この自分のコミュニケーション能力というものを考えるというところにありました。
なぜ筆談が意外に難しいか、というと、通常私達が直接話しているときというのは、言語的なコミュニケーションをしている訳ですが、実際には、非言語的なコミュニケーションというものを伴っています。要するに、表情とか、態度とか、声のトーンとか、直接言葉として表われていないものを使いながら、会話している訳ですね。だから、「めし」「フロ」「寝る」だけでもコミュニケーションとして機能しているということもあり得る訳です。そこには、言葉以外の要素が、笑顔だったり、疲れた態度だったり、眠そうな仕草だったり、声のトーンというか調子だったり、そういうものが、動員されています。ところが、筆談の場合は、こうした非言語コミュニケーションが生かせない、というか、生かしにくいんです。書きながら、どういうふうに非言語コミュニケーションを使うかということについて、私達も訓練を受けていないし、筆談を受ける側も慣れていません。書かれたものだけで、通常の会話でやりとりしているものを全部、そこに乗せようとしても、通じるはずだと思って書いても、なかなかそうはいかないのです。
そうなると、筆談する私達が、自らの筆談コミュニケーション能力をちゃんとしなくっちゃいけない、ということなんです。コミュニケーション能力を確立することが必要です。筆談は単に「書こう」と思うだけでできる訳ではない。ちゃんと一定の訓練をしないと、筆談でちゃんと伝えられるようにはならないと思います。
実はここまで検討して、作業部会で気づいたのですが、私達、これまで要約筆記にかかわってきたものは、自分のコミュニケーション能力についてきちんと捉えるというか、自らのコミュニケーション能力について検討したり、考えたりすることがなかったんじゃないか、ということに気づきました。これまでの要約筆記奉仕員の養成について言えば、現在のカリキュラムやテキストは、要約筆記奉仕員に「通訳」としての側面を強く求めています。現在の要約筆記奉仕員の養成テキストにも、「要約筆記は通訳作業です」と書いてあります。ですから、要約筆記を学ぶ人は、他人の話を伝達する、その伝達を媒介するということについては、教えられてきたし、他人のコミュニケーションを支援するという力を求められてきました。でも、自分のコミュニケーション能力についてはどうだったのか、と考えると、少なくとも現在の要約筆記奉仕員のカリキュラムやテキストでは、そのことは触れられていません。
考えてみると、自分のコミュニケーションがきちんとできなければ、まして他人のコミュニケーションを支援すると言うことができるでしょうか、できないんじゃないでしょうか。作業部会では、この点に気づき、そうすると、自分のコミュニケーションをきちんとできる、ということと、他人のコミュニケーションを支援するということを、分けて考えるべきじゃないだろうか、と考えました。筆談の重要性を取り上げたもう一つの理由は、この自分のコミュニケーション能力というものを考えるというところにありました。