2007年11月26日
要約筆記を使って実現すること
以前に、中失難聴者が、すべての音声を回復したいと願うのは当然の要望だと書いた。音声認識の技術や人工内耳の更なる改良などが、そうした要望に応える日がいずれ来るだろう。とはいえ、それは今日ではないし、明日でもない。
要約筆記に関わっている中で、時に感じるのは、以前にもこのブログに書いたのだが、音声情報のすべてを回復したいという中失難聴者の要望の強さだ。先日も、ガイドツアーの時に要約筆記者が「鳥の声が聞こえる」「鴬が鳴いている」と書いてくれてとてもうれしかった、是非書いて欲しい、という話を聞いた。ガイドツアーの解説を筆記した上で、ということだろうけれど、鳥の声や小川のせせらぎといった音も含めて、音声情報を回復したいという要望は強い。
音声情報のすべてを回復したいという要望それ自体は、当たり前のことだと思うが、現状では、その要望を受けとめるのが「要約筆記者(要約筆記奉仕員)」だというところに様々な問題の出発点があるような気がする。音声情報のすべてを回復したいという要望を実現するには、音声認識や人工内耳などの更なる改良が必要だろう。そのためには、行政を動かし、研究開発に予算を付ける、という運動がなければならない。かつて全難聴の福祉大会で、音声認識技術のデモが行なわれたことがあった。すべての音声情報の回復を真剣に求めるなら、こうした運動は避けては通れないはずだ。聴覚障害者の「すべての音声情報を回復したい」という要望が、行政や研究者、さらには福祉関連企業に真剣に受けとめられるなら、IT技術の進歩と共に、事態は思っているより早く改善される可能性がある。
しかし、現実を見回すと、音声情報のすべてを回復したいという要望を一番真剣に受けとめているのは、聴覚障害者本人およびその家族を除けば、要約筆記者ではないだろうか。音声情報のすべてを回復したいという要望を受けとめた要約筆記者は、どうするだろうか。まず文字数を増やしたいと考えるだろう。手書き文字の場合、整った字で書ける限界は、個人差はあるものの60から70字/分だと思う。それを超えた文字数を求めれば、いきおい、文字は乱れ、書き殴りに近づく。それでもとうてい話しことばそれ自体をそっくり書き起こした場合の文字数には及ばない。話し手の言葉をできるだけそのまま書こうとすれば、一部は書けても、残りの大部分は書き落とす、ということの繰り返しになる。全体を書き落とすまいとして体言止めや助詞止めを増やせば、「ぶち切れの筆記で話し手の雰囲気が分からない」と言われる。かといって文末をそのまま書いていたのでは、どんどん遅れてしまう。「講師が冗談を言ったら、私たち聞こえないものも一緒に笑いたい」と言われれば、確かにその通りだと感じるから、冗談も書き取ろうとし、書いている間に本論は進み、後からシートを読み返すと、本論も冗談も区別ができず、まるで論旨の通らない筆記になっていることを知ってがっくりする。
音声情報のすべてを回復したいという要望それ自体は、間違っている訳ではないし、当然の要求だ。しかし、と私は思う。音声情報それ自体の価値とは何だろうか。いや、音声情報それ自体にも価値はあるのだが、私たちは音声情報を使って何かをしようとする、そういう側面が本当は高いのではないか。講師の講義を聴くとき、講師の声にうっとりしたいのではない。講義の内容を知り、学びたいのだ。人の話を聴き、自分の意見を言い、要はコミュニケーションしたいのだ。社会の情勢や緊急事態について知りたいのだ。確かに情報は、文字によっても伝えられる。新聞や週刊誌、多数の書籍、あるいは文字放送によっても情報は伝えられる。しかし音声情報によって最初に伝えられるという情報も少なくない。映像を得意とするテレビでさえ、音声を消してみれば、内容の過半は理解できない。
現代は情報化社会だと言われる。「情報化社会」とは、とりもなおさず、情報が価値を生む社会ということだ。情報それ自体が価値なのではない。その情報を使って価値を生み出す社会ということだ。要約筆記は、そのためであれば、機能させることができる。要約筆記を使って講義を聴く、内容を知る、会議に参加する、議論する、そういうことは要約筆記を使って可能だと私には思える。もちろん、参加を支える情報保障を実現することは簡単ではない。簡単ではないが、実現可能な目標だと私には思える。しかし、音声情報のすべてを回復することは、要約筆記の仕事ではない、と思う。音声情報のすべてを回復したいという要望を、要約筆記者は理解することができる。その理解に立って、聴覚障害者の切実な願いを、社会に実現していく運動に共に加わることもできる。その運動のための意志決定や判断を支える情報を提供する仕事、要するに情報保障の仕事を担うことは喜んでする。情報保障の制度をこの社会に根付かせ、使えるものとして維持することは、私たち要約筆記者の切なる願いだ。
しかし、音声情報のすべてを回復することは、要約筆記者が自らの筆記で実現することではない。音声情報の丸ごとの回復を、要約筆記それ自体の目標にしてはいけない。音声情報のすべてを回復したいという願いを、中失難聴者の身近にあって理解してきた要約筆記者の存在は、中失難聴者の運動にとって、とても大きかったと思う。ただ、その要望を理解することが、要約筆記にできることとできないことの区別を曖昧にした、ということは否めないように思う。
音声情報のすべてを回復したいという要望と、音声情報を利用して何かをすることの意義とを、切り分けていくという作業が、要約筆記にとって、今、最も求められているのではないだろうか。音声情報のすべてを回復したいという要望を正しく理解し、その要望が存在することは認めつつ、音声情報を使って何かをする、自分たちの福祉の運動を進めようとする、学ぼうとする、働こうとする、社会に進出していこうとする、そういう中失難聴者のために、音声情報を使える形で提供する要約筆記を実現する、と考えたい。端的に言えば、「音声情報それ自体を回復するのに要約筆記を使う」のではなく、「自らがやりたいことに取り組むために要約筆記を使う」ということだ。後者の立場を徹底すれば、要約筆記者が何をすべきかは自ずと見えてくると思う。
要約筆記に関わっている中で、時に感じるのは、以前にもこのブログに書いたのだが、音声情報のすべてを回復したいという中失難聴者の要望の強さだ。先日も、ガイドツアーの時に要約筆記者が「鳥の声が聞こえる」「鴬が鳴いている」と書いてくれてとてもうれしかった、是非書いて欲しい、という話を聞いた。ガイドツアーの解説を筆記した上で、ということだろうけれど、鳥の声や小川のせせらぎといった音も含めて、音声情報を回復したいという要望は強い。
音声情報のすべてを回復したいという要望それ自体は、当たり前のことだと思うが、現状では、その要望を受けとめるのが「要約筆記者(要約筆記奉仕員)」だというところに様々な問題の出発点があるような気がする。音声情報のすべてを回復したいという要望を実現するには、音声認識や人工内耳などの更なる改良が必要だろう。そのためには、行政を動かし、研究開発に予算を付ける、という運動がなければならない。かつて全難聴の福祉大会で、音声認識技術のデモが行なわれたことがあった。すべての音声情報の回復を真剣に求めるなら、こうした運動は避けては通れないはずだ。聴覚障害者の「すべての音声情報を回復したい」という要望が、行政や研究者、さらには福祉関連企業に真剣に受けとめられるなら、IT技術の進歩と共に、事態は思っているより早く改善される可能性がある。
しかし、現実を見回すと、音声情報のすべてを回復したいという要望を一番真剣に受けとめているのは、聴覚障害者本人およびその家族を除けば、要約筆記者ではないだろうか。音声情報のすべてを回復したいという要望を受けとめた要約筆記者は、どうするだろうか。まず文字数を増やしたいと考えるだろう。手書き文字の場合、整った字で書ける限界は、個人差はあるものの60から70字/分だと思う。それを超えた文字数を求めれば、いきおい、文字は乱れ、書き殴りに近づく。それでもとうてい話しことばそれ自体をそっくり書き起こした場合の文字数には及ばない。話し手の言葉をできるだけそのまま書こうとすれば、一部は書けても、残りの大部分は書き落とす、ということの繰り返しになる。全体を書き落とすまいとして体言止めや助詞止めを増やせば、「ぶち切れの筆記で話し手の雰囲気が分からない」と言われる。かといって文末をそのまま書いていたのでは、どんどん遅れてしまう。「講師が冗談を言ったら、私たち聞こえないものも一緒に笑いたい」と言われれば、確かにその通りだと感じるから、冗談も書き取ろうとし、書いている間に本論は進み、後からシートを読み返すと、本論も冗談も区別ができず、まるで論旨の通らない筆記になっていることを知ってがっくりする。
音声情報のすべてを回復したいという要望それ自体は、間違っている訳ではないし、当然の要求だ。しかし、と私は思う。音声情報それ自体の価値とは何だろうか。いや、音声情報それ自体にも価値はあるのだが、私たちは音声情報を使って何かをしようとする、そういう側面が本当は高いのではないか。講師の講義を聴くとき、講師の声にうっとりしたいのではない。講義の内容を知り、学びたいのだ。人の話を聴き、自分の意見を言い、要はコミュニケーションしたいのだ。社会の情勢や緊急事態について知りたいのだ。確かに情報は、文字によっても伝えられる。新聞や週刊誌、多数の書籍、あるいは文字放送によっても情報は伝えられる。しかし音声情報によって最初に伝えられるという情報も少なくない。映像を得意とするテレビでさえ、音声を消してみれば、内容の過半は理解できない。
現代は情報化社会だと言われる。「情報化社会」とは、とりもなおさず、情報が価値を生む社会ということだ。情報それ自体が価値なのではない。その情報を使って価値を生み出す社会ということだ。要約筆記は、そのためであれば、機能させることができる。要約筆記を使って講義を聴く、内容を知る、会議に参加する、議論する、そういうことは要約筆記を使って可能だと私には思える。もちろん、参加を支える情報保障を実現することは簡単ではない。簡単ではないが、実現可能な目標だと私には思える。しかし、音声情報のすべてを回復することは、要約筆記の仕事ではない、と思う。音声情報のすべてを回復したいという要望を、要約筆記者は理解することができる。その理解に立って、聴覚障害者の切実な願いを、社会に実現していく運動に共に加わることもできる。その運動のための意志決定や判断を支える情報を提供する仕事、要するに情報保障の仕事を担うことは喜んでする。情報保障の制度をこの社会に根付かせ、使えるものとして維持することは、私たち要約筆記者の切なる願いだ。
しかし、音声情報のすべてを回復することは、要約筆記者が自らの筆記で実現することではない。音声情報の丸ごとの回復を、要約筆記それ自体の目標にしてはいけない。音声情報のすべてを回復したいという願いを、中失難聴者の身近にあって理解してきた要約筆記者の存在は、中失難聴者の運動にとって、とても大きかったと思う。ただ、その要望を理解することが、要約筆記にできることとできないことの区別を曖昧にした、ということは否めないように思う。
音声情報のすべてを回復したいという要望と、音声情報を利用して何かをすることの意義とを、切り分けていくという作業が、要約筆記にとって、今、最も求められているのではないだろうか。音声情報のすべてを回復したいという要望を正しく理解し、その要望が存在することは認めつつ、音声情報を使って何かをする、自分たちの福祉の運動を進めようとする、学ぼうとする、働こうとする、社会に進出していこうとする、そういう中失難聴者のために、音声情報を使える形で提供する要約筆記を実現する、と考えたい。端的に言えば、「音声情報それ自体を回復するのに要約筆記を使う」のではなく、「自らがやりたいことに取り組むために要約筆記を使う」ということだ。後者の立場を徹底すれば、要約筆記者が何をすべきかは自ずと見えてくると思う。