2007年12月07日
情報量の格差と聞こえの保障
以前にこのブログで2度、聞こえの世界を二次元の図にして示したことがある。あえて三掲すると、
横軸:前もって準備できるものか、その場で対応するしかないものか
縦軸:話の内容が重要か、どんな風には話されたかといった表現が重要か
内容が重要
☆ ↑ ★ 会議
事 | 講演
前 ◆映画 プラネタリウム
に←————————┼——————→その場で発言
準 芝居 |
備 |
落語 ↓
表現が重要
(等幅フォントで表示してください)
となる。これは「聞こえの保障」の世界を一つの考え方で整理したものであって、整理の仕方はもっといろいろあるだろうと思う。最近、気づいた整理として、この縦軸を「情報量の格差」とする見方がある。つまりこうだ。
横軸:前もって準備できるものか、その場で対応するしかないものか
縦軸:コミュニケーションしている両者の間の情報量の格差
格差がない
↑ 会議
事 |
前 | 講演
に←————————┼——————→その場で発言
準 プラネタリウム
備 |
↓ 教育 医療
格差が大きい
(等幅フォントで表示してください)
会議などでは、互いの情報の格差は小さい。情報量に差があっても、それは構造的なものではなく、個人差に過ぎないことが多いだろうと思う。こうした場合には、通訳としての要約筆記は十分機能するだろう。
講演では、講師の持っている情報量は、講演のテーマに関しては、聴衆の持つ情報量よりかなり多いだろう。だからこそ、講演を聴きに来ているとも言える。こうした話し手と聞き手の間に情報量の格差がある場合、通訳を介した情報の伝達は、おそらく会議の場と異なる様相をもつと考えられる。
一例を挙げよう。情報量の多さは、時に、講演の内容に関連した原典からの引用といった形で現われることがある。例えば、松尾芭蕉についての講演会で芭蕉の俳句を引用する、山田洋次監督の映画について講演会で「寅さん」の台詞を引用する、ということはあり得る。原文のまま味わうことを、講演者が聴衆に求めるなら、その言葉については、レジュメに掲載する、板書するといった配慮をすることが求められる。これは聴覚障害者だけの話ではなく、一般の聴衆に対する場合にも言える話だ。情報を大量に持っている側が、少ない側に何らかの配慮をしないと、十分に情報は伝わらないからだ。それでも講演者が、耳からの情報だけに頼って、原文を引用して講演をすることがあり得る。そうした場合、引用される言葉をそのまま要約筆記で再現することは難しい。したがって、話し手と要約筆記通訳者との連携、事前の打ち合わせなどが、より重要になる。
更に、教育の現場や、医療の現場では、よりこの傾向は強まる。先生と生徒、医者と患者では、情報量の格差はとてつもなく大きい。こういう場合、単に要約筆記を付けるだけでは、教育保障にならない。先生の教えのスタイルは同じで、要約筆記通訳を利用すれば良い、ということにはならないのだ。情報量の格差が大きい場合には、単に通訳を挟むのではなく、その場所全体の聞こえの保障をデザインすることが必要になるのではないか。
対等な二者の間の情報の交換はコミュニケーションと呼ぶことができるが、彼我の立場や保有する情報量に圧倒的な差がある場合は、コミュニケーションではなく、「教育」であり、「医療」であり、あるいは「司法」(取り調べ、裁判)だということだ。したがって、単に通訳者を配置するだけでは、こうした場面では、足りないのだ。私たちのプラネタリウムでの経験でも、ある程度きちんと情報を伝えられていると感じることができるようになったのは、話し手である学芸員の方の協力的な姿勢がはっきり感じられるようになったあたりからだった。
自立支援法は、コミュニケーション支援を謳うが、ここでは、コミュニケーション支援だけではなく、もう少し大きなとらえ方、その場全体を見て聞こえない人にどのように情報を手渡していくかを考えなければならない、ということになるだろう。
横軸:前もって準備できるものか、その場で対応するしかないものか
縦軸:話の内容が重要か、どんな風には話されたかといった表現が重要か
内容が重要
☆ ↑ ★ 会議
事 | 講演
前 ◆映画 プラネタリウム
に←————————┼——————→その場で発言
準 芝居 |
備 |
落語 ↓
表現が重要
(等幅フォントで表示してください)
となる。これは「聞こえの保障」の世界を一つの考え方で整理したものであって、整理の仕方はもっといろいろあるだろうと思う。最近、気づいた整理として、この縦軸を「情報量の格差」とする見方がある。つまりこうだ。
横軸:前もって準備できるものか、その場で対応するしかないものか
縦軸:コミュニケーションしている両者の間の情報量の格差
格差がない
↑ 会議
事 |
前 | 講演
に←————————┼——————→その場で発言
準 プラネタリウム
備 |
↓ 教育 医療
格差が大きい
(等幅フォントで表示してください)
会議などでは、互いの情報の格差は小さい。情報量に差があっても、それは構造的なものではなく、個人差に過ぎないことが多いだろうと思う。こうした場合には、通訳としての要約筆記は十分機能するだろう。
講演では、講師の持っている情報量は、講演のテーマに関しては、聴衆の持つ情報量よりかなり多いだろう。だからこそ、講演を聴きに来ているとも言える。こうした話し手と聞き手の間に情報量の格差がある場合、通訳を介した情報の伝達は、おそらく会議の場と異なる様相をもつと考えられる。
一例を挙げよう。情報量の多さは、時に、講演の内容に関連した原典からの引用といった形で現われることがある。例えば、松尾芭蕉についての講演会で芭蕉の俳句を引用する、山田洋次監督の映画について講演会で「寅さん」の台詞を引用する、ということはあり得る。原文のまま味わうことを、講演者が聴衆に求めるなら、その言葉については、レジュメに掲載する、板書するといった配慮をすることが求められる。これは聴覚障害者だけの話ではなく、一般の聴衆に対する場合にも言える話だ。情報を大量に持っている側が、少ない側に何らかの配慮をしないと、十分に情報は伝わらないからだ。それでも講演者が、耳からの情報だけに頼って、原文を引用して講演をすることがあり得る。そうした場合、引用される言葉をそのまま要約筆記で再現することは難しい。したがって、話し手と要約筆記通訳者との連携、事前の打ち合わせなどが、より重要になる。
更に、教育の現場や、医療の現場では、よりこの傾向は強まる。先生と生徒、医者と患者では、情報量の格差はとてつもなく大きい。こういう場合、単に要約筆記を付けるだけでは、教育保障にならない。先生の教えのスタイルは同じで、要約筆記通訳を利用すれば良い、ということにはならないのだ。情報量の格差が大きい場合には、単に通訳を挟むのではなく、その場所全体の聞こえの保障をデザインすることが必要になるのではないか。
対等な二者の間の情報の交換はコミュニケーションと呼ぶことができるが、彼我の立場や保有する情報量に圧倒的な差がある場合は、コミュニケーションではなく、「教育」であり、「医療」であり、あるいは「司法」(取り調べ、裁判)だということだ。したがって、単に通訳者を配置するだけでは、こうした場面では、足りないのだ。私たちのプラネタリウムでの経験でも、ある程度きちんと情報を伝えられていると感じることができるようになったのは、話し手である学芸員の方の協力的な姿勢がはっきり感じられるようになったあたりからだった。
自立支援法は、コミュニケーション支援を謳うが、ここでは、コミュニケーション支援だけではなく、もう少し大きなとらえ方、その場全体を見て聞こえない人にどのように情報を手渡していくかを考えなければならない、ということになるだろう。