2008年02月23日
要約筆記の限界
長い間ブログを更新できなかった。とにかくやたら忙しかった。毎年のことではあるけれど、年末から年度末まで、私が属している業界はなかなか忙しい。部下の退職、その後始末という仕事もあった。一段落ついたので、気を取り直して、またこのブログを書いていきたい。私の場合、どうしても一つのテーマで書くことが長くなってしまう。あまり長くならないようにして、書き継ぐようにできれば、とも思うのだが、なかなか、これが。
さて、名古屋の要約筆記者が、要約筆記の取り組み方を変えてから丸2年が過ぎた。この2年間、私たちは、自分たちの取り組みに対して確かな手応えを感じてきた。自分たちが変えた要約筆記の取り組みは、目標を明確にして取り組むことだった。それは、「できないと諦めて、手近な目標に切り替える」ことではなかった。目標は、明確になった分だけ、高くなったとも言えるかも知れない。
要約筆記をやっていて、中途失聴者難聴者から、「聞こえなくても一緒に笑いたい」といわれてきた。その言葉に対して、「今はできないけど、少しでも近づけるようにがんばる」というだけですむなら、なんと安易な対応だろう。がんばるボランティア。それは見た目は美しい話かもしれない。その一方で、その場の情報から取り残され、当たり前の権利を保障されずにいる人がいる。自らの主体性を奪われて、口惜しい思いをしている人がいる。「がんばるボランティア」にとっても、それは放置しても良いことであるはずがない。
「その場の情報を保障する」−−文字にすればたった11文字のこのことを、きちんと実現しようとすれば、どれだけの修練と経験とチームプレーと環境整備とが必要になるだろう。目標を明確にしてその実現に向けて取り組んだとき、初めてそれが分かった。要約筆記を使う人が読み疲れない表記、すぐに利用できる表記、話し言葉の伝達効率を高める要約、その場ですぐ利用できる形で情報を手渡すこと、聴覚障害者と要約筆記の利用場面との関係に応じた支援の方法、情報伝達の環境の整備、それら一つ一つをカバーしていくことは簡単ではない。それらができて初めて、「その場の情報を保障する」というたった11文字の作業が現実的なものになる、聴覚障害者の人権を保障する最初の一歩になる。
確かに、保障すべき対象は広く大きい。もちろん、その場にいる聞こえ人と同じように感動したい、笑いたい。その道は、しかし最初の一歩を踏み出す以外にたどることができない道なのだ。
2年前を振り返ると、私たちは、大きな書き割り(舞台背景として描かれたもの)の前で要約筆記を演じていたような気がする。書き割りには、理想の要約筆記らしきものが描かれていた。そこには、話し言葉のすべてを伝えたい、という要約筆記者の願いも描かれてはいたが、書き割りに過ぎないから、その頂(いただき)に至る実際の道はなかった。もちろん目標としては正しい。正しいが役に立たない。書き割りとしては美しいから、観客は手を叩くが、現実の頂まで歩いていこうとする者には何の役にも立たない。
名古屋の要約筆記者は、その書き割りを捨てる、という決断をしたのだと思う。書き割りを捨てて、私達は実際に歩いていける丘の頂をまず目標とした、そして歩き始めた。すると、丘の頂でさえ、そこまで歩むことの困難さは、書き割りの前の、要するに平坦な舞台の上とは全く違うことが分かった。一つの丘まで登れば、次の、より高い頂が見えてきた。道はあるのかないのかもよく分からないが、歩くほかはない。私達は書き割りを捨てたのだから。
書き割りに描かれた高い頂、見事な稜線、それは美しいかもしれない。比べれば、現実の丘は貧相だし、たいした高さには見えないかもしれない。しかし、登ることのできない書き割りの山頂より、自分たちで、登録要約筆記者の会という志を同じくする仲間たちと登る丘の方が、重要ではないか。切実なものではないか。遙かな高みに登るふりをして過ごすより、本当の丘に登ろう。登ればまた次の目標が見えてくる。遠くまで行こう。行けばまた、次の道程が見えてくる。
さて、名古屋の要約筆記者が、要約筆記の取り組み方を変えてから丸2年が過ぎた。この2年間、私たちは、自分たちの取り組みに対して確かな手応えを感じてきた。自分たちが変えた要約筆記の取り組みは、目標を明確にして取り組むことだった。それは、「できないと諦めて、手近な目標に切り替える」ことではなかった。目標は、明確になった分だけ、高くなったとも言えるかも知れない。
要約筆記をやっていて、中途失聴者難聴者から、「聞こえなくても一緒に笑いたい」といわれてきた。その言葉に対して、「今はできないけど、少しでも近づけるようにがんばる」というだけですむなら、なんと安易な対応だろう。がんばるボランティア。それは見た目は美しい話かもしれない。その一方で、その場の情報から取り残され、当たり前の権利を保障されずにいる人がいる。自らの主体性を奪われて、口惜しい思いをしている人がいる。「がんばるボランティア」にとっても、それは放置しても良いことであるはずがない。
「その場の情報を保障する」−−文字にすればたった11文字のこのことを、きちんと実現しようとすれば、どれだけの修練と経験とチームプレーと環境整備とが必要になるだろう。目標を明確にしてその実現に向けて取り組んだとき、初めてそれが分かった。要約筆記を使う人が読み疲れない表記、すぐに利用できる表記、話し言葉の伝達効率を高める要約、その場ですぐ利用できる形で情報を手渡すこと、聴覚障害者と要約筆記の利用場面との関係に応じた支援の方法、情報伝達の環境の整備、それら一つ一つをカバーしていくことは簡単ではない。それらができて初めて、「その場の情報を保障する」というたった11文字の作業が現実的なものになる、聴覚障害者の人権を保障する最初の一歩になる。
確かに、保障すべき対象は広く大きい。もちろん、その場にいる聞こえ人と同じように感動したい、笑いたい。その道は、しかし最初の一歩を踏み出す以外にたどることができない道なのだ。
2年前を振り返ると、私たちは、大きな書き割り(舞台背景として描かれたもの)の前で要約筆記を演じていたような気がする。書き割りには、理想の要約筆記らしきものが描かれていた。そこには、話し言葉のすべてを伝えたい、という要約筆記者の願いも描かれてはいたが、書き割りに過ぎないから、その頂(いただき)に至る実際の道はなかった。もちろん目標としては正しい。正しいが役に立たない。書き割りとしては美しいから、観客は手を叩くが、現実の頂まで歩いていこうとする者には何の役にも立たない。
名古屋の要約筆記者は、その書き割りを捨てる、という決断をしたのだと思う。書き割りを捨てて、私達は実際に歩いていける丘の頂をまず目標とした、そして歩き始めた。すると、丘の頂でさえ、そこまで歩むことの困難さは、書き割りの前の、要するに平坦な舞台の上とは全く違うことが分かった。一つの丘まで登れば、次の、より高い頂が見えてきた。道はあるのかないのかもよく分からないが、歩くほかはない。私達は書き割りを捨てたのだから。
書き割りに描かれた高い頂、見事な稜線、それは美しいかもしれない。比べれば、現実の丘は貧相だし、たいした高さには見えないかもしれない。しかし、登ることのできない書き割りの山頂より、自分たちで、登録要約筆記者の会という志を同じくする仲間たちと登る丘の方が、重要ではないか。切実なものではないか。遙かな高みに登るふりをして過ごすより、本当の丘に登ろう。登ればまた次の目標が見えてくる。遠くまで行こう。行けばまた、次の道程が見えてくる。